古代の大宰府を守る土塁の期待された役割 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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太宰府市の北西部の水城(みずき)の役割は唐・新羅の連合軍に対して九州本土、特に大宰府を防御するために造られたとして定説になっている。また、福岡県筑紫野市の前畑遺跡で土塁状遺構が確認され、有明海方面から侵入する外敵から大宰府を守る意図が読み取れ、古代大宰府の外郭線(防衛ライン)と考えられている。

これに対し、著者は水城、大野城、基肄城、さらに新発見の土塁は南部の筑後平野あたりの熊襲を抑え込み、朝鮮半島の新羅と結託するのを防ぐ為と解釈している。熊襲と新羅とが結託して穴門豊浦宮を襲撃し、仲哀天皇と神功皇后が熊襲征伐したことが日本書紀に書かれている。

何故、こんな説を思いついたかと言えば、水城などを作る土木工事には現地民(熊襲)を従事させながら、実際の唐・新羅連合軍に対する防衛については、わざわざ、東国から派遣した防人(さきもり)に依頼しているからである。現地民には労働を強いながら、武器は持たせなかったのであった。

大体、唐・新羅の連合軍は大宰府を無理に攻める必要性は無く、防御が手薄な地域や本州など他のところに侵攻するはずである。

水城などの土塁を作る大きな目的は現地の熊襲の力を削減し、熊襲の北上を阻止することと、大宰府の周辺の地質は花崗岩の真砂土であり、洪水時の宝満川や御笠川を流れ下る土砂を堰き止める砂防ダムの役割も期待されていたと考えている。


追加: 

博多湾岸から水城までの官道が二つ並行して建設されていたことが考古学的に明らかになっているが、反対側の筑後平野からの熊襲の襲撃に対応し、官軍が博多湾岸から馳せ参じる為のものである。定説で想定したように海を渡って敵の唐・新羅連合軍が博多湾岸に上陸したとすると、この官道を利用して水城まであっと言う間に到達してしまう。この定説では官道が無い方が良いことは明らかである。


参考

① 未だ謎の古代大宰府「防衛ライン」 土塁発見から5年、来年度に調査報告書

産経新聞(2020.9.13、参考)

前畑遺跡で見つかった土塁状遺構。平成28年の現地説明会には多くの考古学ファンが詰めかけた=福岡県筑紫野市

福岡県筑紫野市の前畑遺跡で土塁状遺構が確認され注目された古代大宰府の外郭線(防衛ライン)。九州歴史資料館(同県小郡市)が関係自治体とともに、確認調査を進めているが、広大な防衛ラインの存在は、いぜん多くの謎に包まれている。大宰府をより大きな視点で見直すきっかけになった前畑遺跡での土塁発見から5年。外郭線はあったのか-。古代史ロマンをかき立てる議論は今後も続きそうだ。(永尾和夫) 

◆尾根沿いに土塁 

「岡の上にどうして土塁があるんだ」

平成27年10月、筑紫野市筑紫・若江地区にある前畑遺跡の発掘作業を続けていた同市教委文化財課の小鹿野亮係長らは、丘陵地の尾根に沿って伸びる土塁状遺構の出土に驚いた。「想像もしていなかった」という。前畑遺跡は、弥生時代から古墳時代にかけての遺跡で、西鉄筑紫駅西口土地区画整理事業のため、発掘調査が進められていた。 

同市教委は文化庁、福岡県文化財保護課と協議。周辺に同じような遺構がないか調査をした。その結果、確認された土塁状遺構は長さ390メートルにもおよび、さらに南へ伸びていることが分かった。 

土塁は2層からなり、上層は土と砂を交互に積み重ねた版築(はんちく)と呼ばれる工法で造られていた。最大幅は13・5メートル、高さ1・5メートルだった。こうした工法は大宰府防衛のため、7世紀後半に築かれた国特別史跡、水城(みずき)跡や大野城跡と類似する。 

土塁は東側が急斜面になっており、東から侵入してくる敵への防備を固めたとみられる。有明海方面から侵入する外敵から大宰府を守る意図が読み取れるという。 

同28年12月、現地説明会が開催されると、考古学ファン約1千人が詰めかけ、関心の高さを示した。しかし区画整理事業の区域内であることから140メートルは記録保存にとどめ、土塁が現状保存されるのは250メートルのみとなった。 

この発見が大きな反響を呼んだ理由の一つに「国内初の羅城(らじょう)ではないか」という見方があるためだ。 

羅城は、古代の東アジアで中国を中心にした都市防衛の方法で、土塁や石塁をめぐらした「城壁」。朝鮮半島では古代百済の首都泗●(さび)を守る「扶余(ぷよ)羅城」(長さ8・4キロ)が知られている。しかし、国内では見つかっておらず、羅城が最終的に確認されれば「国内初の大発見」となる。 

実は大宰府にも羅城があったという学説は、阿部義平・国立歴史民俗博物館教授(当時)が平成3年に打ち出し、注目されていた。 

◆さらに200メートル確認 

そこで福岡県教委は同29年度から、九州歴史資料館を中心に大宰府外郭線の調査研究に乗り出した。現地調査の対象は外郭線が想定されている筑紫野、春日、大野城、太宰府、那珂川、小郡の各市に宇美町を加えた7市町で、佐賀県基山町の協力も得て大宰府外郭線検討会を設置した。 

まず図上分析や現地踏査をした結果、土塁状遺構が残っている可能性がある7カ所が浮上。30年度から発掘調査に入った。昨年度は水城跡東門東側丘陵(太宰府市)と大土居水城跡丘陵(春日市)の2カ所で、地面を掘削して地層を調べるトレンチ調査を実施した。しかし「人工の積み土は確認できなかった」という。今年度は小郡市北部の2カ所で発掘調査をする予定。 

一方、筑紫野市教委は土地区画整理事業に伴う前畑遺跡の発掘調査を続けている。同事業の南側は筑紫公園(3ヘクタール)が予定され、10カ所でトレンチ調査した。その結果、今月初めまでに先に見つかった土塁状遺構につながる約200メートルの土塁を確認したという。 

九州歴史資料館は来年度、こうした調査を基に報告書をまとめる。ただ阿部氏が想定した広大な羅城説を裏付けるには現状では物証が不十分な状態。同資料館文化財調査室の吉田東明参事補佐は「大宰府外郭線の解明に向けて事実関係をしっかり積み上げていきたい」という。 

◆自然の地形を利用 

7世紀後半、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた日本は、大陸側からの侵攻に備えて大宰府防衛を強化した。百済から亡命して来た人たちの協力で、水城をはじめ、大野城、基肄(きい)城(佐賀県基山町など)を次々に築いた。阿部氏は、これらの軍事施設をぐるりとつなぐ総延長51キロの羅城を推定した。 

これに対し、筑紫野市教委は、阿部氏が描いたラインの外側(東側)を想定する。扶余羅城は西側を流れる河川錦江を取り込んで防衛ラインとしている。同市教委は古代大宰府でも北側の宝満川を取り込むなど、自然の地形を利用していた可能性を指摘。基肄城東側の「とうれぎ土塁」(佐賀県基山町)や関屋土塁(同)と連動して要所を固める戦略だったのではないかと見ている。また、土塁の形状から通行帯として使われたとの説も出てきた。 

土塁状遺構が造られた年代も明確ではない。同市教委は、水城などに続き7世紀の築造と見ているが、これを裏付ける土器などは見つかっていない。また7世紀後半に起きた筑紫大地震の痕跡なども明確なものはないという。吉田参事補佐は「外郭線は大掛かりな事業。そうなると地方豪族などでは無理。古代国家が総力を挙げて取り組んだはずだ」と指摘する。 

大宰府外郭線は、どういう規模で、何の目的で構築されたのか。点が線になり実像が浮かび上がるにはまだ多くの謎が残る。 

小鹿野係長は「これまで古代大宰府といえば、大宰府政庁のことだった。今回の発見は大宰府をより大きな視点で見直すきっかけになったのではないか」と話す。古代大宰府研究に一石を投じた大規模な土塁状遺構の発見は今後も論議が続きそうだ。 

◇【用語解説】白村江の戦い 

7世紀後半、朝鮮半島では百済、新羅、高句麗が抗争を続ける中で百済が滅亡。663年、百済救援に向かった日本(倭)は、白村江(現在の韓国・錦江河口付近)で、唐・新羅連合軍と戦い大敗。大和政権の一大転機となった。●=さんずいに


② 新発見 大宰府を守る土塁 - 筑紫野市



③ 水城と父子嶋(参考)

水城の築城工事などには地元民をつかったが、防衛のための防人には東国の民を連れて来た。

④  前畑遺跡の土塁状遺構は砂防ダムの機能もあった(参考)

大宰府の周辺の地質は花崗岩の真砂土であり、土砂崩れの危険性は現在までもあり、前畑遺跡の土塁や水城を含む版築土塁は砂防ダムの役割も期待されていた。