下関市立歴史博物館常設展示図録より、遺物など1 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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9 虚庵玄寂(寂空)画像

長福寺(現功山寺)の開山である虚庵玄寂(寂空)の頂相図(肖像画)。東福寺第43世の性海霊見による永和3年(天授3年、1377) の賛文がある。


10 忌宮神社境内絵図

鎌倉時代末~南北朝時代初期頃の長門府中 (長府) の景観を、忌宮神社を中心に描いた絵図。原図は忌宮神社の所蔵で、本図はそれを江戸時代に写したもの。原図は古文書とともに重要文化財に指定されている。 守護館なども描かれており、当時の様子を今に伝えている。


11 ○長門国守護寄進状 筆陳

元徳2年(1330)、長門国守護北条時直が長門国串崎若宮に土地を寄進することを伝えた文書。時直は、隣国周防の守護も兼ね、のちに「長門周防探題」などと呼ばれた。なお、時直の前代の長門国守護北条時仲は、長福寺(現功山寺)の創建に尽力している。


12 ○年預紀某年貢催促状 安尾家文書

文和3年(正平9年、1354)、年貢を使者に渡すよう長門国府の金屋大工所に命じた文書。長門国府のほか、瀬戸崎(長門市)や肥中(下関市)にも金屋(鋳物師·鍛冶師の作業場)があったことがわかる。現在の長府金屋の地名は、この金屋に由来する。なお、この文書は、中世から近代に至るまで長府で代々鋳物師を生業とした安尾家に伝わったものである。


13 ○楊柳観音坐像

14世紀の高麗王朝末期の作と推定される高麗仏画。高麗王朝滅亡後、日朝交易により長府功山寺の前身である長福寺にもたらされたものと考えられている。


14 △大内義隆安堵状 日頼寺文書

大内義隆が、禅超首座に長門国府の一得軒と豊田郡阿川別府の潮音寺の住持職を認めた文書。左奥には義隆の巨大な花押(サイン)が据えられている。

注: 豊田氏の時代、阿川潮音寺は今の海翁寺


15 △毛利元就画像

戦国大名毛利元就を描いた寿像(生前に描かれた肖像画)である。下絵は元就本人を前に描かれたともいわれ、ありし日の元就の風貌を今に伝えている。


16 △毛利元就筆 連歌作法

毛利元就が、連歌の作法について記したもので、元就の文化人としての一面を物語っている。


17 △毛利元就所用白茶地桐竹文様綾頭巾

毛利元就着用の頭巾。長府藩3代藩主で玄孫にあたる毛利綱元が、延宝6年(1678)に元就の菩提寺である日頼寺に寄進したもの。


18 △虚庵玄寂(寂空)行録

長福寺(功山寺の前身)の開山虚庵玄寂(寂空)の行録(伝記)を長福寺僧高庵令節と玄浩が、渡明して臨済宗円通寺の南浦如幻から得たもので、明の景泰5年(1454)の年紀をもつ。下関に遺る日明交流資料として貴重である。


(下関市立歴史博物館常設展示図録より)(彦島のけしきより)