われらのテナー藤原義江
藤原義江は、明治31年(一八九八)、下関市に生まれた。父は貿易商社瓜生商会」の支配人で、英国人のネイル·B·リード。母は琵琶芸者の坂田キク。
義江は、父や瓜生商会の支援でイタリアに音楽留学。のちロンドン公演での歌声が大好評で、デビュー数年で日本人初の「ビクター赤盤芸術家」としてアメリカでレコードを吹込み、世界的な音楽家の名声を得た。「われらのテナー」の愛称で呼ばれ、華々しい音楽家としてプリマドンナに取り囲まれ、華麗な生涯を送った。日本にオペラを根づかせ「藤原歌劇団」を創設、文化遺産となっている。
彼は自叙伝の中で「わたしの生まれたのは下関、父にもわたしにもこの関門海峡は世界のどこよりも思い出の多い土地である」と語っている。
紅葉館(明治末年ころ)
藤原義江の父リードが住んでいた。
手前は宮崎商館(現在ロダン美容室)で、石炭で大きな事桒を営んだ宮崎儀一の店舗。本宅は名池山にあり、宮崎御殿とも呼ばれ、その一室で藤原義江が生まれている。下関商業会議所、下関電話交換局の建物が並ぶ。
(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)
下関駅 25才
(藤原義江より)
(彦島のけしきより)