武士道とはお釈迦様の悟りの境地に近づく行為であった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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武士を武士たらしめている原理とは何か?と疑問を持った時、それは武士道であると回答が返って来る。

漠然と武士道と言われてもよく分からない。新渡戸稲造が外国人に武士の行動原理を説明する時に上手く説明する為に導入したもので、江戸時代までの本当の武士に武士道があったのかどうか疑問を持っていた。

武士達、特に東国の武士達がお釈迦様と同族で気性と価値観を共有して、自分達の現世での煩悩を御する為に、禅などの仏教の修行を行なっている。

このお釈迦様の仏教を信仰して悟りの境地に至ろうとする行為自体が、武士達の武士道であると説明出来るかも知れない!?


参考

① 武士道の淵源(仏教について)

Apuのall That I Am(2016.6.4、参考)

まず仏教から始めよう。

運命に任すという平静なる態度、不可避に対する静かなる服従、危険災禍に直面してのストイック的なる沈着、生を賤(いや)しみ死を親しむ心、仏教は武士道に対してこれらを寄与した。ある剣道の達人(柳生但馬守)がその門弟に業(わざ)の極意を教え終わった時、これに告げて言った、「これ以上の事は余の指南の及ぶところではなく、禅の教えに譲らねばならない」と。

「禅」とはディヤーナの日本語訳であって、それは「言語に表現の範囲を超えたる思想の領域に、瞑想をもって達せんとする人間の努力を意味する」。その方法は瞑想である。

しかしてその目的は、私の領解する限りにおいては、すべての現象の底に横たわる原理、能(あた)うべくんば絶対そのものを確知し、かくして自己をばこの絶対と調和せしむるにある。かくのごとく定義してみれば、この教えは一宗派の教義(ドグマ)以上のものであって、何人(なんぴと)にても絶対の洞察に達したる者は、現世の事象を脱俗して「新しき天と新しき地」とに覚醒するのである。

岩波文庫 武士道 P33 より


新渡戸稲造の武士道「 第二章 武士道の淵源 」の冒頭(上記)に、仏教のことが短い文章で端的に記述されています。仏教の難しい言葉や思想は非常にわかりにくく、取っつきにくいことが多いですが、仏教ってなに?と聞かれたとき、この文章はざっくりとその目指すところを示してくれています。

人生と瞑想を接着させ、洞察を深めることの重要性を認識させるこの文章は、理不尽なことや避けられない問題を前にしたときに、根本的な解決を導くための橋頭堡であるように思えます。

≪関連リンク≫


② 多くの武士がお釈迦様の教えを信仰して禅の修行を行うのは、特に東国の武士がお釈迦様と同族で、彼らの気性と価値観が一致して禅の修行をしたことに起源があった(参考)