明治天皇の葬場殿址(明治神宮外苑) 、東京都新宿区 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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葬場殿址(明治神宮外苑)  新宿区霞ヶ丘町1−1 明治神宮外苑聖徳記念絵画館の北側


参考

【100年の森 明治神宮物語】記憶(1)「お別れの場所」

産経ニュース(2020.5.1、参考)

明治天皇の大喪の儀で使われた葬場殿の跡地。円壇にクスノキが植えられている =4月15日、東京都新宿区(飯田英男撮影)

■葬場殿址にそびえるクスノキ

聖徳(せいとく)記念絵画館(東京都新宿区)の裏手に、1本のクスノキがそびえている。新緑の生命力にあふれる木の足元には花崗(かこう)岩でできた円壇(直径14・5メートル)があり、「葬場殿址(そうじょうでんし)」と刻まれた石碑が建っている。

ここが、明治天皇と東京の人々との「お別れの場所」だった。大正元年9月13日、青山練兵場で執り行われた大喪の儀で、轜車(じしゃ)(棺(ひつぎ)を乗せた車)が安置された葬場殿の跡地だ。

「葬場殿の後ろには当時、臨時駅として青山仮停車場が設けられていました。千駄ケ谷駅からの引き込み線があり、それを使って、お棺は京都の桃山に向かったんです」

明治神宮外苑の関係者が教えてくれた。東京が初めてお迎えした天皇は、ご自身の希望で東京ではなく生誕地の京都の陵墓に帰り、人々はこの場所で棺を見送った。ご祭神として明治神宮に鎮座するのは大正9年11月で、まだ先のことである。

◆畏敬の念に満ちた静寂

大正元年9月13日。轜車が皇居を出発した午後8時に、陸軍の弔砲の轟音(ごうおん)が響いた。明治天皇の伝記「明治天皇紀」によると、品川に停泊する軍艦から海軍の弔砲がこれに応じ、東京市内外の寺院の弔鐘もこれに和した。

弔砲は人々の記憶に深く刻まれ、夏目漱石は小説「こころ」で主人公の「先生」に、「私にはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました」と述懐させた。また、同時刻に、乃木希典(まれすけ)陸軍大将が妻とともに殉死を遂げている。

轜車は5頭の牛に引かれ、同行した軍楽隊が弔曲「哀(かなしみ)の極(きわみ)」を吹奏する中を日比谷公園、虎ノ門跡、赤坂見附を通って青山練兵場へ進んだ。街路には事前に清砂がまかれ、沿道のガス灯などが葬列を照らし、各戸には哀悼奉送の意を示す白張り提灯(ちょうちん)がつられた。日本文学研究者、ドナルド・キーンの「明治天皇」(平成13年)では、「明治天皇紀」を踏まえて人々の様子をこう書いている。

「式場への沿道は、立錐(りっすい)の余地なく無数の奉送者たちで埋まった。しかし、そこには畏敬の念に満ちた静寂が支配していた」

式場に轜車が到着したのは午後10時56分。牛が外され、棺は葬場殿に安置された。式が終わり、棺が特別列車に移ったのは日付が変わった14日午前1時40分。列車は桃山へと出発する。

◆永遠性を象徴する「木」

明治天皇崩御の直後、日本橋区民らが実業家の渋沢栄一を訪ね、「東京に天皇の陵墓を」と政府への働きかけを求めたことは、連載の冒頭で触れた。キーンは前掲書で、「東京府民の嘆願は聞き届けられなかった。(中略)東京に明治神宮が造営されたのは、恐らく傷ついた東京府民の気持を慰撫することを意図したものだった」と書いている。

明治神宮があるのに、大正神宮がない理由の一端もそこにある。「明治神宮の出現」(吉川弘文館)の著書がある山口輝臣東京大大学院准教授は「大正天皇の陵墓は東京(八王子市の武蔵陵墓地)にできたという単純な理由で説明できる」と話す。

「クスノキは寿命が長く、諸説ありますが、永遠性を象徴する木、神が宿るとして神社の御神木などで使われています。その意味では、この葬場殿址は明治神宮の造営と同じ精神でつくられたのでしょう」

絵画館の藤井正弘副館長は、豊かに枝葉を伸ばすクスノキの横でそう語る。「お別れの場所」の周囲では今、親子連れが遊んだり、若者がテニスやスケートボードを楽しんだりしている。神宮外苑と、豊かに育った明治神宮の森と境内に、棺を見送った悲しみの面影は薄い。それでも絵画館では「不豫(ふよ)」「大葬」の2点の壁画が人々の慟哭(どうこく)を記録し、クスノキは神宮の森と同じ100年以上の時を経ながら、この地に刻まれた「記憶」を今に伝えている。=毎週金曜掲載