小倉城下町散歩、帯曲輪あたり | 日本の歴史と日本人のルーツ

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小倉城下町さんぽ

新型コロナウイルスで外出自粛になり、しばらくは動けませんが、終息したら小倉の城下町の名残を探して楽しんでください。

小倉の城下町は紫川をはさんで東が「東曲輪」、西が「西曲輪」と呼ばれます。西曲輪の北西に「帯曲輪」という細長い区画がありました。現在の鋳物師町辺りです。

常盤橋を西行したら大門。大門から南下すると「長崎街道」です。西に向かうと「唐津街道」になります。「唐津街道」は小倉から戸畑を経由して若松に至る道です。

大門からJR踏切を渡ると、小倉ボウル跡のパチンコ店。そのすぐ先に「長園寺」。この寺は「華岳山西蓮院長圓寺」と称し、室町時代中期の嘉吉元年(1441年)に開かれました。もとは小倉城内に在りましたが、慶長年間に細川忠興の命により現在の地に移り今に至ります。城内の八坂神社はもともとこの辺りにありました。

少し進むと「立法寺(りゅうほうじ)」があります。日蓮宗の寺院で天正18年(1590年)開創。小笠原藩お抱え儒学者・増井玄覧(儒学者)と豊前小倉小笠原家の茶道「古市古流」の11代目古市自得斎(茶人)の墓所があります。古市古流の起源は古く、茶祖村田珠光の弟子古市播磨守を流祖とした武家茶道で、小笠原家の茶道として長く続いてきた由緒ある茶道の名門です。

少し進むと板櫃川。極楽橋が架かっています。この橋は罪人を刑場に連行するときに渡るのでかつては「地獄橋」と呼ばれました。橋のたもとには杉田久女の旧居。久女はこの家にいるとき兄に手ほどきを受け俳句に目覚めたそうです。その時の句「鯛を料(りょう)るに俎板(まないた)せまき師走かな」が大正6年、ホトトギスに入選し頭角を現していくのです。


参考

赤矢印: 長園寺、黄矢印: 立法寺、みとり矢印: 極楽橋、青矢印: 杉田久女旧居

赤印: 杉田久女旧居 小倉北区日明一丁目1-20

1920年(大正9年)  板櫃川の北、
帯曲輪という細長い区画、現在の鋳物師町辺り