謎に包まれた与次兵衛碑
文禄元年(一五九二)、朝鮮征伐のため肥前名護屋に出陣し指揮をとっていた豊臣秀吉は、母の急病の知らせに大阪へ帰る途中、彦島の沖で座礁し危うく溺死するところを、毛利秀元(長府初代藩主)により救出された。
この暗礁は「死の瀬」と呼ばれ恐れられていたものだが、秀吉の御座船日本丸の船頭、明石与次兵衛は、その罪により大里の浜で打首になったとも、また死の瀬で切腹したともいわれている。
この事件ののち、地元彦島の人たちが浄財を集めて、遭難した死の瀬に慰霊碑を建て、与次兵衛の冥福を祈るとともに、通行の船に警告を与えたので、それから死の瀬を改め、与次兵衛ヶ瀬と呼ぶようになった。
そして明治四十三年に始められた関門航路の凌藻工事によりこの暗礁は取り除かれ、与次兵衛の慰霊碑だけが彦島の弟子待に運ばれたが、のちに唐戸の第四港湾建設局の岸辺に放置されていた。
ところが昭和二十九年の春、夜陰に乗じて門司側から乗りつけた船により持ち去られたというのである。
現在このミステリーに包まれた与次兵衛慰霊碑は、門司のめかり公園の一角に建てられており、説明板には、小倉藩主細川忠興が与次兵衛塔を作り建てたもので、一時下関市第四港湾建設局構内に建てられていたが、昭和十八年に海峡に沈められていたのを引揚げ、昭和三十四年に再建し、昭和四十七年に現地に移設した…とあるから奇怪である。
ところで問題のこの石塔について、私は言い伝えられた本物の与次兵衛碑ではないと断定している。なぜかというと、文政九年(一八二六)、下関に寄港したシーボルトはこの与次兵衛碑についてくわしく説明し「記念碑は約二メートル五○の高さの四角い柱で四面からなるピラミッド形の飾り屋根があって碑文はない」と記しているのに、写真の与次兵衛碑は一メートルちょっとしかなくしかも円柱だからである。
悲劇の伝説にからんだ与次兵衛碑は、深い謎を秘めて、今日もめかりの丘から、なつかしい関門海峡をじっと眺めて立っているのである。
(下関とその周辺 ふるさとの道より)(彦島のけしきより)
参考
① 門司の明石与次兵衛碑(参考)
② 関門海峡の浚渫事業について(参考)
③ シーボルトが描いた与次兵衛ヶ碑のスケッチ
シーボルト「NIPPON」より 福岡県立図書館所蔵(参考)