明石与次兵衛塔、門司区 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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所在地: 門司区大字門司和布刈公園内

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明石与次兵衛塔

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説明板

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門司港


参考

文禄元年(1592年)、豊臣秀吉は佐賀県に建造した名護屋城に陣をおき、文禄の役(第1次朝鮮出兵)での出征基地としました。朝鮮半島に攻め込んで3ヶ月経った頃、秀吉は母である大政所危篤の報を受けます。母思いの秀吉は急ぎ早船を仕立てて大阪へと向かいました。

秀吉の御座船は細川忠興が差し回したもので、船頭(船長)の名は明石与次兵衛といいました。秀吉を乗せた御座船は大阪へ向かい、途中関門海峡を通過しようとします。そこには、干潮の時は姿を現し、満潮になると海面下に隠れてしまう、あるいは、波間に見え隠れする「篠瀬」という大きな岩礁がありました。

与次兵衛は懸命に操船を試みますが、御座船は篠瀬に座礁して大破し、秀吉は海に投げ出されてしまいます。なんとか篠瀬にたどりつき、裸同然でいるところをほかの船に救助されて、柳ヶ浦の浜(大里の浜という説もあります)に上陸し、難を逃れることができましたが、その後、明石与次兵衛は事故の責任をとって切腹します。

1600年に豊前国主となった細川忠興は明石与次兵衛の死を悼み、篠瀬に慰霊碑を建立して付近を航行する船のための目印としました。いつしか篠瀬は与次兵衛ヶ瀬と呼ばれるようになりました。時は流れて江戸時代、その碑をシーボルトがスケッチしています。彼が記した「江戸参府紀行」には、「記念碑は2メートル50センチ。四角い柱で四面からなるピラミッド型の飾り屋根があり碑文はない。」と記述されています。記念碑は与次兵衛ヶ碑と呼ばれ、その後暴風雨や船の衝突事故などでたびたび倒れたりしましたが、その度に再建されています。

時代は明治に移り、旧逓信省(後の郵政省)によって碑は、昼夜灯建設のため撤去、海中に投棄されました。その後大正時代になって内務省による岩礁撤去工事の際に発見され、内務省下関土木出張所(後の運輸省第四港湾建設局)の裏庭に再建されますが、第二次世界大戦が始まると、その裏庭に防空壕を掘るために撤去され、再び庁舎前面の海中に仮置きされてしまいます(参考)。碑は、戦後有志によって引き揚げられ、北九州市門司区のめかり公園内に再建され、現在に至っています(参考)。