下関市役所本庁舎の歴史 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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最初の市役所庁舎(明治41年)


明治22年の市政施行当初は赤間関区役所の建物を使っていたが、明治41年5月17日、東南部町木造二階建洋風の新庁舎が完成。


(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)(彦島のけしきより)



最初の下関市役所庁舎(中央)と警察署(左) 現在は消防本部から立体駐車場へ建て替え


建て替え前の下関市役所庁舎

市役所庁舎 幻に終った松井構想

下関市役所庁舎と市消防本部の間に「関在番役所址」の碑が立っている。

明治二十二年に市制が始まって以来、まる八十八年の下関市の歴史とともに、市庁舎の歩みも、この碑の立つ場所を皮切りにめまぐるしいばかりの変遷を重ねてきた。

もともとは、昔の城山の小高い丘を切り開いて建てられた区役所建物を使っていた。しかし、県下第一の市がこんな庁舎ではいかんと、明治四十一年五月、木造二階建て洋風のものが建設された。ちょうど今の消防本部の場所。東隣りは警察署だった。

昭和十二年二月、名池坂の上り口付近にあった宿直室付近(別館)から出火、庁舎の半分が焼けた。実は、この年六月から市史編さん作業が始まったばかりで、それまでに集めた資料や原稿の大部分が焼失してしまった。なかには再び入手できない貴重なものもあり、影響は予想以上に大きく、結局、市史編さんは中止のやむなきに至っている。この火災で木造建築物の弱さを痛感させられた当時の松井信助市長は、思い切った鉄筋新庁舎の建設を計画、背後の城山を崩して建てようとした。りっぱな模型もできた。

設計には東京大学工学部建築科を卒業した詩人·立原道造もタッチしていた。立原は十三年十二月に下関を訪れ、そのときのもようを「日記」にまとめているが、この中で、下関駅(当時は細江)の夜更けの感じ 上野駅のプラットホームとよく似ていると表現、そのあとに「終着駅だからだろう。九州朝鮮行と指さしてあるのが、かなしかった」と書いている。

焼け残った旧庁舎の材料で十五年、名池山に図書館も建設されたりしたが、おりから戦争も激化、鉄材が少なくなるなどで当分は辛抱を、ということになり、今の水道局あたりにバラックの仮庁舎が建てられた。しかし、これも戦災で焼け、市役所は商工会議所内にその事務を移していたが、二十年十月、王江国民学校(王江小)に移った。

松井市長の夢も、敗戦、さらに下関が戦災にあったという悲惨な状況のもとでは実現もほど遠く、市長は二十一年二月、公職追放にあって、十五年余りという戦前戦後を通じて最高の長期市長の座を退いたのである。

退職後は日和山の自宅で静かな日々を送った。当時の進駐軍は、長年下関市長をつとめた松井に対し恩給の支給をはばみ続け、結局二十四年六月、鉄筋コンクリート庁舎を目にすることなく、松井は寂しく死んでいった。市役所はその後、重砲連隊跡に移転(二十一年十一月)したが、もとより老朽建物でその上狭くて貧弱、おまけに立地条件も不便だとして、福田泰三市長は、ぜいたくだと言われながらも庁舎新築を決意、設計は当時としては珍しい公募の形をとった。

全国から百四十三点の応募があり、東京の田中誠氏が入選、その後資金面で難航したが、二十八年、現在地にやっと着工、一年四ヵ月の工期で三十年二月に今の市庁舎(一部増築)が完成したのである。

建て面積千二百平方メートル、延べ面積八千三百六十平方メートル。鉄筋八階建ての明るいモダンな庁舎は、当時、西日本一の画期的な施設であった。一時は十五万人まで減少した下関の人口も、この市庁舎の完成した年には二十二万人を突破、そして五十二年には二十七万人だ。

市役所に勤める職員数も二千七百人と、市内一のマンモス企業にふくれ上っている。

(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)(彦島のけしきより)


旧市役所庁舎(昭和20年代)


昭和20年7月2日の空襲で市庁舎は全焼し、下関商工会議所・王江国民学校へ移ったのち、西部第74部隊跡地へ。貴船町の現社会福祉センターあたり。


(戦前には重砲兵連隊があり、戦後、阿部技芸高等女学校なども同居した。)


(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)(彦島のけしきより)



市庁舎建設(下関市南部町·昭和29年頃)

昭和20年の戦災で市庁舎が焼失。市職員らは小学校や商工会議所など3か所を転々として執務したが、昭和28年に新庁舎建設に着手。同30年に西日本屈指の近代建築物として竣工した。

(下関・豊浦の100年より)(彦島のけしきより)


現在の庁舎(東端から撮影)


参考

① 大正8年の市役所と警察署、城山(南部山城)の北山麓にあった(参考)



② 江戸時代の赤間関在番役所跡

市役所庁舎から消防局、駐車場と変遷する

赤矢印: 赤間関在番役所跡の石碑

下関市南部町2−6


③ 下関市消防局の現在地

下関市岬之町17−1