厳島神社 大太鼓争奪戦
萩毛利忠正公の領土だった"新地浦”の守護神、厳島神社。かつてはその境内も松林で、お宮は大きな松の木に囲まれていたものだった。しかし、そばを列車が走り、周辺に家が建ち並ぶなどの環境変化に対応し切れなくなったのか、終戦前後に次々に枯死、多い年には年に十本くらい切ったことがある…と有島稔久宮司。
「昔は本当にいい森だったんですがね」と残念がる。この境内に、大正末、太鼓堂が建った。つるされた太鼓は直径1.2m、重さ340kg近くと超特大。いかにも重そうにぶら下がっているが、実はこの大太鼓、海峡を隔て、小倉と長い間"争奪戦"がくり広げられてきたものでもある。もともとは小倉城主がやぐらにつるし、近郷領土に非常を知らせるために置かれていた。
これを慶応二年、下関に陣をかまえていた高杉晋作が総指揮官となって小倉城に進攻、八月一日降伏させ、戦利品として持帰り同神社に奉納した。
しかし、いつの間にやらそんな因縁は忘れられ、大正十三年までは物置きに放り込まれたままだった。
物置きでごろごろしているうちに両側の皮は破れ、かなり古びていったが、摂政宮御成婚記念で堂を建て皮を張りかえ、山県伊三郎公(枢密顧問官従二位勲一等公爵)の石碑による由来記まで建てられた。以来、神社側では非常の際にはこれを打ち鳴らすようになった。
昭和二十五年四月の伊崎の大火の際には、有島宮司自らドーツ、ドーン"とすさまじいばかりの音でこの太鼓をたたき、火事を知らせた。付近住民は今でも、この太鼓が鳴れば大事と知る。何しろこの大太鼓、小倉城にあったころは門司大里の里まで響いたというからその音の大きさもうかがい知れようというもの。
もっとも、最近はこの音も昔に比ぺればかなり劣るようだが、しかしそんじょそこらの太鼓ではやはり近づきようもない。大晦日には除夜の鐘ならぬ"除夜太鼓"が、今も毎年くり返されている。
この太鼓を、小倉城が「もともとはうちのもの。返してくれ」と訴え出たことがある。神社側が突っぱねると、今度は「金ですむことなら…要求があるならいくらでも出す。もし必要なら代わりのもっと大きな太鼓もつくりますから」とさらに要求してきた。これには神社側も頭にきた。馬鹿にするのもいい加減にしろというわけで「この太鼓は高杉を隊長とする奇兵隊が氏神の当神社に奉納したもの。高杉が許可するならお返しいたしましょう」これには、小倉も完全にあきらめた。
ところが昭和四十三年四月、突然小倉に「小倉城太鼓保存会」ができ、あれよあれよという間に小倉城天守閣にデッカイ太鼓がつるされた。小倉珹発行の機関紙いわく…「慶応二年、小倉城が自焼する直前、藩命で運びだし安全な場所に移していた小倉城中大太鼓が百二年ぶりに見つかった」(四十三年六月八日発行)。それによると、下関の厳島神社の太鼓とばかり思っていたら、正真正銘の大太鼓が別のところから発見されたという。
つまり下関のはニセ物というわけ。伝え聞いた神社側はビックリ仰天。"別の所"という戸畑八幡神社に足を運び聞いたところ、同神社の宮司は「うちにあったというが、私は太鼓など見たこともない」と言っていたという。
「小倉の郷土史家の一部の人たちも、このやり方には憤慨しておられた。いくら何でもデッチあげがひど過ぎる。今のところは無視してますけどね」と有島宮司。今年は下関の郷土史家らにも相談し、八月一日をメドに大々的に太鼓祭りを催したいと同神社は張切っている。
(海峡の町有情 下関手さぐり日記より)(彦島のけしきより)
参考