稲荷町の鎮海楼、下関市 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

鎮海楼

「ここはね、京都の一力を模したのですよ」とその御老人がおっしゃる。「たしか、高杉晋作の掃剣の間というのがありましたよ。間者がやって来たのでさっと切り払った、というのですよ」

鎮海楼は昭和一〇年ごろまで残っていた。

鎮海楼

稲荷町の後、大阪山にそびえ立つ料亭であった。鎮海楼といった。もとは大阪屋といい大阪屋は一名対帆楼ともいった。大阪屋は姓を木村といい平氏没落より今日まで続いている。

この写真を見て思わず「ああ、この松は懐しい松ですね。」とため息をあげた方があった。

(写真集 明治大正昭和 下関より)(彦島のけしきより)

大正8年の唐戸、中央左上に稲荷山、対帆楼(大坂屋、現東京第一ホテル下関)が見える。


参考

鎮海楼は明治になって伊藤博文が改名させたもので、明治維新前は大坂屋の対帆楼と呼ばれ、高杉晋作やアーネストサトウも訪れた。