関門汽船の創業者は関門港の発展に多角的に寄与した! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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関門海峡の渡船の関門汽船のルーツに門司の石田汽船があるが、石田平吉が始めた。石田平吉はその他、外航船に水を売ったり、旅館や劇場も経営し、政治家もやった。

門司港と言えばバナナの叩き売りが有名であるが、このバナナ輸入業者と石田平吉は共に劇場の旭座の役員として名前を連ねていた。

石田旅館全景

当時は、かなり流行っていた旅館だったのだろう。門前に、客送迎用の人力車が数台待機している。

門司·石田旅館の一室で、あの自伝のモトネタが生まれた

自伝小説「放浪記」で知られる、関門ゆかりの女流作家.林芙美子。門司きっての豪華旅館だった石田旅館は、林芙美子の放浪記に関わりの深い旅館としても知られている。

(平原健二コレクション関門浪漫より)(彦島のけしきより)


旭座(大正10年)

(門司百年より)(彦島のけしきより)


門司港石田桟橋(明治末期)

(澤忠宏 関門海峡渡船史より)(彦島のけしきより)


バナナと大和丸

バナナの叩き売り

(古写真集「関門浪漫」より)(彦島のけしきより)


参考

① 一人ひとりが声をあげて平和を創る メールマガジン「オルタ広場」(参考)

■落穂拾記(11)

「梅月 瀬太郎」なる人物を追う 羽原 清雅

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「『門司港』発展と栄光の軌跡」(書肆侃侃房・2011・1刊)なる自著を上梓したあと、「オルタ」主宰の加藤宣幸さんが「門司港と言えば、遠い親戚に『梅月瀬太郎』という人物がいて、門司港で新聞を作っていた」と教えてくれた。

刊行後のことで、「どうしたものか」と迷いながらも、『新聞』というキーワードに惹かれて、調べ始めることにした。

そのうち、ある程度のことがわかってきた。しかし、肩書き的なことばかりで、人物に迫れるものは皆無。面白みに欠けている。とはいえ、けっこう調べるのにエネルギーを要したので、放置してしまうのも惜しい。ということで、加藤さんに甘えて、「オルタ」に登場させていただくことにした次第。

それにしても、数十年のうちに、人間の生命のみならず、存在すら消えて、忘れられていくのだ、と改めて感じる「追跡」であった。政治家は威張り、橋や道路を造って名を残そうとするが、地元でさえ2、30年もすれば、知る人もいなくなる。大きな墓を作っても、親族以外に訪れる人もいなくなる。阿倍野の墓地には無縁化した墓があちこちにあって、人間がほんの一代の過客に過ぎないことを思い知らされるが、わかってしまえば悲しいこともない。梅月瀬太郎なる人物を、その発掘の経緯と併せて紹介したい。

何者だろうか、と早大図書館に出かけた。発行していた新聞の名称がわからないので、まずは古い人名辞典、戦前の興信録などを見る。ない。やっと、大正14年版「帝国銀行会社要録」を開いたら、「門司旭座株式会社」の代表取締役に、その名があり、実在の人物としてやっと実感した。だが、翌年版やその前の版を見ても、その名はない。設立は大正10(1921)年2月、資本金8万円、とある。

確かに、門司港全盛の時代に「旭座」はあったし、地図にも残る。役員にはバナナを台湾から輸入して、いまも「門司港のバナナの叩き売り」として知られる果物問屋創業の百合野保夫(のち門司市議)が名を連ね、昭和2(1927)年版には代表取締役として石田平吉が登場する。

石田は門司の港で関門海峡を結ぶ渡船業を始めて、石田桟橋を設け、また3つの貯水池を作って外航船などに水を売り込んだり、大きな旅館を作ったりした成金で、門司市議から衆院に出て2期(憲政会)務めている。当時は娯楽も少なく、人口の増加の激しい門司港であったから、劇場が相次いで開業しており、またおおいに儲かるので経営権を争ったか、とも推測した。

そのうち、「エスユー<SU>商会」という船舶売り込み業を奥さんがやっていた、との加藤さんの情報がはいる。地元から九州一円に販路を持った「門司新報」の、北九州市立図書館にあるマイクロフィルムを連日回すうちに、1ヵ所だけこの商会の名があり、上繁商会とともに大手のひとつであるような記事が見つかった。大正9(1920)年暮れの海運不況のころである。名称は、おそらく瀬太郎のS、梅月のUのようだ。

さらに進展したのは、明治32(1899)年8月から35(1902)年2月までの2年半の間、門司市の助役だった、との記録(門司市史)が見つかる。

門司市が生まれて初代の助役である。

当時の市議会は、633人の裕福な地元有権者が選ぶ15議員<2級>、多額納税(79%)者である九州鉄道の出す15議員<1級>がその構成で、九鉄と石炭商が結ぶ一方、地域に割れた2、3の会派や市長与党の会派などが入り乱れる激しい政争の場であったようだ。発展途上で法制もまだ整わず、利権が絡み、暴力が羽振りを利かせる舞台の助役に起用されたのだから、かなりのやり手であったに違いない。

また、門司市議にも選ばれた、との記述から、大正7(1918)年5月から同15(1926)年5月までの2期8年間の在職であることが北九州市門司区役所の資料で判明。とすると、市議の時に旭座の経営に加わったことになる。

もうひとつわかったのは大正12(1923)年10月、「門司信用組合」を設立、初代組合長に就任していること。関東大震災の翌月だが、日本全体の経済、社会の混乱期に発足させたということは、すでに準備を進めていたのだろう。どのような経過で信用組合に関わったのかはわからない。現在、合併を重ねて、「福岡ひびき信用金庫」として存続、創業90年になろうとしているが、社史にもその発足当時の事情は明らかにされず、梅月の名前が創業者として1行あるだけになっている。梅月、の名前は門司区の電話帳にはない。門司港の行きつけのバーで、「梅月WHO」の話をしたところ、門司在住で大正時代から洋服を仕立てていた老舗の2代目梅津禮一郎さんが、小倉界隈の梅月姓のお宅を数軒訪ねてくれた。しかし、係累は見つからない。ただ、豊前市八屋町の出身とまで突き止めてくれた。しかも、八屋町住吉にあるつつじで知られる宝福寺が菩提寺だった、という。

この梅津さん、じつは小生が朝日新聞の記者時代に、入社同期で写真部長をしていた梅津禎三さんの長兄とわかる。こういう出会いもあるか、とうなったものである。

これを機に、梅月の素性が少しずつわかってくる。

瀬太郎は明治元(1868)年5月、福岡県築城村生まれ、学歴は不明ながら、当時大発展を遂げつつあった門司に出て冲商、つまり停泊中の船舶に必要物資を納める「エスユー商会」を立ち上げたという。助役になるのは30歳を一寸超えたくらいであるから、かなりの実力があったと思われる。このエスユー商会、実質的な経営者は、てい(テイ子)夫人だったようだ。語学が堪能で、自ら外国船への給水事業や船用品売り込みに当たっていたようだ。

ここまでくると、新聞業をしていたことも本当だろう、と思うようになって、調べる気になってきた。というのもそれまでは、門司港は大阪から毎日、朝日が進出、地元には門司新報という強力紙があり、梅月が発行していたとしても大した新聞でもあるまい、後回しでよろしい、くらいに考えていたのだ。

早大と東大の図書館に行く。永代静雄が先駆的に刊行した日本新聞年鑑、日本電報通信社刊の新聞総覧などを調べると、梅月社長の下で「門司新聞」を刊行していたことがわかってきた。関係はないのだが、永代については、津和野出身の「新聞集成 明治編年史」や文学大系、国語辞書など百巻以上の著作を編んだ中山泰昌(三郎)の友人で、田山花袋と若い恋人を争ったことで知られているが、中山について書いたことで親しみがあった。

「門司新聞」が発刊されたのは大正3(1914)年5月で、この年に第1次世界大戦が始まり、日本軍は青島を占領している。「戦争時は新聞が売れる」といわれるが、これを地で行こうとしたのか。すでに地元には20年以上前の明治25(1892)年発刊の「門司新報」が大きくシェアを伸ばしていたので、後発としてはかなりの苦労があっただろう。門司新報の朝刊8ページに対して、4ページ、資本金は6万円に過ぎなかった。両紙とも「中立」をうたったが、新報は政友会系、新聞は憲政会系とされていた。

門司新報のほうは、今もマイクロフィルム化されて北九州市の中央図書館にあるが、門司新聞は、残念ながら残されておらず、新聞としてのレベルはわからない。大正15年版の同年鑑を見ると、広告を共同で掲載するなどの姉妹紙として八幡新聞、若松新聞、戸畑新聞、小倉新聞、さらに田川郡伊田町での北九州新報の5紙を経営する、とあるので、地域紙として手を広げたようだ。もっとも、各地に先行する地域紙があったので、2番手の新聞にとどまっていたように思われる。

昭和13(1938)年7月ころから、戦争への取り組みがあわただしくなり、各地で新聞の統制が始まる。年末の第1次統制で、福岡県下にあった300余の群小新聞雑誌は全滅状態になり、翌14年8月までに40種の日刊紙は13種に激減した。16年末に新聞事業令によって、一県一紙体制とする方向となる。

このため、16年には全国で日刊104社、18年には54社に整理されており、新聞界はいよいよ息苦しくなっていく。ちなみに、報知新聞出身の政治評論家の御手洗達雄によると、この事態に拍車をかけたのは「特高警察と(これに協力した業界団体の)新聞会」(「日本新聞百年史」)としている。

門司新聞もそのあおりを受けて、14年5月をもって夕刊門司新報と合併することになって、「門司日日新聞」と改題する。号数だけは継承して八千号を超えた。部数は五千部。梅月は社長を続けるが、新聞総覧昭和16年版を見ると、同年7月までは掲載されているが、翌17年版(同年12月刊)には出ていない。

この年7月の閣議で、「新聞新体制確立のため」として福岡など4大地域での新聞統合を決めており、8月には福岡日日新聞と九州日報が合併して西日本新聞となっているので、このころに梅月の門司日日新聞も姿を消したと思われる。戦争の犠牲、と言っていいだろう。

ところで、梅月瀬太郎の人物紹介が、諦めかかったころに見つかった。それは、「北九州の人物・上」(昭和5年刊)に掲載されていた。たまたま門司港の本を書くなかで、かつてこの街に存在した内野医院の所在地を調べた関連で、「内野辰次郎」(陸軍中将・代議士)の人物コピーが残っており、この隣のページに梅月が出ていたのだ。偶然、これに気づいたもので、とにかく愕いた。

これによると、瀬太郎は維新時の江戸開城の1ヵ月前、今の福岡県築城村(現築城町)広末に生まれている。門司港に出てエスユー商会を創立し、テイ子夫人の内助もあって、大阪、神戸にも支店を持ったという。そして、門司市制施行最初の助役に就任、ついで市議2期を務めるかたわら、門司新聞を刊行、門司信用組合を創設して組合長となり、旭座の社長も一時務めた、とある。この記事を早く見つければ、どうということはなかったのだが、<調べ物の無駄骨とはそんなものである>ことを改めて実感することになった。

ところで、その人物紹介によると「性重厚寡言、趣味として読書があり。又、酒を嗜み、陶然として酔へば、奇警諷刺時として到り、頗る愛好すべきものがある。」とあるのだが、これだけではイメージが湧いてこない。

むしろ、てい夫人については「キリスト教主義なる横浜フヱルス女学校卒業の才媛にして,語学に堪能、才気煥発、いはゆる男勝りの女丈夫にして、商取引はもとより対応円滑、真に賢夫人といふべく、夫君の事業をして今日あらしめたる一半は、主としてその効に帰すと称せられる。」とあり、このほうがわかりやすい。

ところで、加藤宣幸さんによると、梅月夫妻は新聞発行の仕事を奪われたためであろうか、第2次世界大戦の激化に伴って豊中市に移転、さらにかつて夫人のいた横浜に行って戦災にあったという。別荘が伊豆長岡にあったというが、詳しいことは不明のままだ。

子どもがいなかったこともあって、没年などその消息はここで途絶えている。

明治中期から昭和初期までの混乱期に、市政に関わり、事業を興し、さらに新聞を作った波乱の人材。だが、その軌跡はたどりようもなく、歴史の中に身を消していく。(敬称略) (筆者は元朝日新聞政治部長)
 

② 唐戸・門司港を結ぶ渡船の関門汽船の最古のルーツの石田汽船

1889年(明治22年)9月に門司の石田平吉により関門間の和船航路の運航から始まった。