役行者、下関市大字福江字畑代 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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地蔵・行者の道しるべ

安岡から川棚を結ぶ農免道路は山あいを通り抜ける緑の涼しい道路であるが、安岡からの取付部分に三角地帯があって、農道竣工の記念碑があり、碑の反対側安岡寄りの木立の中に、福江の林へ通じる道があって、ここにたいへん変わった像がある。

それは、頭はお地蔵さんで、あごにはひげを生やし、手には巻物と錫杖を持っているようであり、足には一本歯の下駄をはいておられ、いうなれば首から下は行者の姿である。

この行者というのは、山伏の元祖とも親分ともいうべき役行者(えんのぎょうじゃ)の像である。

いつかの時点でこの頭がもがれ、のちに村人の厚い信仰となさけによって首が継がれたのだが、元の行者(頭には頭巾をかぶりひげを生やしていたはず)の顔が見つからなかったのか、はじめの姿がわからなかったのか、ひげのないお地蔵さんのまる顔がすわったのである。

村の入口に安置され、地蔵さんと行者の二人の強い法力によって、悪魔も病気気も退散し、村は安奏であったかもしれぬが、それにしてもおもしろい組合わせである。

また台座には「右せき左長婦江」とあって道しるべも兼ねており、天明三年(一七八四)とあるから古いものである。

昔は海岸の道がなかったはずであるから、吉見以北の北浦からの人びとが、ここから関の町へ、あるいは長府の城下町へ向かったことがわかる。

役行者の像がなぜここに安置されたのかその由来はよくわからぬが、この地城一帯を「行者原」と呼んでいるのが何か関係がありそうである。

村の入口の分かれ道にあたり、庚申や道祖神の役目もしたこの合体の像に、地元の人びとは今も深い信仰を捧げ、供えられた花がすがすがしい。

木陰の向こうを時どき、乗用車が狂ったような騒音を残して疾走するが、木立の中はいよいよ静かである。

(下関とその周辺 ふるさとの道より)(彦島のけしきより)

: 地元では、お地蔵さんと勘違いされて大切にされている。

: 所在地は、本来は下関市大字福江字畑代であるが、付近の住宅地は市街化区域で安岡6丁目となっている。


参考

① 役行者像の現在

下関市安岡町6丁目14 道標(役行者)

役行者像は旧北浦街道(北浦往還)と農免道路の交差点あたりにあった。ここから農免道路(県道244)沿いに南下するルートは長府への旧道と一致している。


② 旧北浦街道(北浦往還)