夕映えの久留見ケ瀬 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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哀愁の久留見ケ瀬

下関市内の雑踏を通り抜け国道 一九一号線を北上すると、横野から福江にいたる沖合に、久留見(くるみ)ケ瀬とよばれる無人灯台の建った小さな瀬がみえる。

この瀬はいつも海面の下にかくれ、干潮のときだけ平らな岩礁をさらすが、かつて竜宮島という大きな島国であったのが沈んだのだと伝えられている。いまから何千年も昔のこと、この竜宮島に玄海王という横暴な王が住んでいた。ある年のこと、王の命令で月見の望楼が築かれることになり島中の若者がかり出された。島に結婚して間もない若夫婦がいたが、その夫も強制的に連れ出され、夫は庭の楡 (ニレ)の木を指して、この梢に青葉が無繁るころには必ず帰って来るといって出発した。しかし、楡の木に青葉が繁り、望楼も完成し、秋になって黄葉を散らすころになっても夫は帰って来ないので、妻の久留見は愛する夫の肌着をつくり、城に向かったが夫を見つけることができなかった。ある日一人の老人から夫が望楼の人柱になったことを聞き、歓き悲しみ泣き明かした。その彼女の美しい顔 にひかれた家来の一人が、久留見を玄海王の後宮に献上しようとたくらみ、無理に城に連れていった。承諾しなければ危ないと感じた久留見はある計画を思いつき、夫を丁重に供養してくれれば承知すると答えたので、国中をあげての盛大な法要が営まれた。そしてそのあとで彼女は望楼から海に向かって身を投げたのである。それ以後不思議にも、一日一日と大きな竜宮島は海に没しはじめ、遂に玄海王国は滅び、今のような小さな瀬になり果ててしまったのである。

この伝説を読むと私は歌劇トスカを思い出すのであるが、また万葉の昔、東北から徴発され九州の守りについた防人(さきもり)や、響灘に遭難した漁師の妻たちの悲しい思いが、この悲劇の伝説のもとになっているのではないかと想像するのである。

いつもは紺青の海に白波のさわぐ久留見ヶ瀬であるが、今日はまたおだやかな夕日になぐさめられてか静かに岩肌を横たえ、夕映えのさざ波が久留見の挽歌を奏でるようにささやき、海どりの声がわびしくひびいて美しい 落日を惜しむのであった。

(下関とその周辺 ふるさとの道より)(彦島のけしきより)


参考

安岡病気あたりから見た蓋井島と久留見瀬

近年 「久留見瀬」 について、「玄海王」 なる説話が流布されているが、是は伝説でも何でもない。創作である。 作者は佐藤治氏。昭和36年頃であったか ご本人より店頭でこんな作品を書いたと聞かされ、地元の者として困ると抗議したのだが、その時は既に印刷に廻されていた。