毛利元義と吉見塩田、下関市永田 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

毛利元義と吉見塩田

長府毛利藩の十一代元義が文化人として名高い殿様であ ったことは、曲水の宴で紹介したが、彼は詩を作り絵を描くことにもすぐれ、浄瑠璃も堪能で、清元の三名作の一つである「梅の春」の作詩者として有名である。

さらに焼物にも関心を示し、鷹羽焼や松風焼を奨励するなど多彩な趣味をもち、学者や詩人、俳人、画家などを優遇したので、長府藩には数多くの文人が育ち、文化の花を咲かせた。

元義はまた藩政の改革のため軽輩を登用し、相場会所の開設、吉見塩田の造成、彦島の開拓や才川の開拓にも着手し成功をおさめ、産業振興の面でも大いに実績をあげている。

この中でも私は特に吉見塩田の造成に興味をひかれるのであるが、塩の生産については、昔から雨量が少なく日照時間の長い瀬戸内海岸が適地であることは常識で、長州藩では三田尻の塩田が特に有名であり、長府藩では王司地区に小規模なものがあった。

元義が従来の常識を破り、山陰北浦の吉見に塩田を開発したのは画期的なことであり、彼の卓越した見識と事業熱に敬服するのである。(注: さらに古代の奈良時代から塩田があった。忌宮神社に納められた文書がある)

文化元年(一八〇四)、国内ではじめて日本海側につくられた吉見の永田郷塩田は、入り浜塩田で発足したが、軌道に乗るにつれて実績があがり販路も拡大され、文化四年には年間総生産高が千六百トンにも達して藩財政を助けたのである。

このような経緯をたどってきた永田郷塩田も時代の波には勝てず、戦後の製塩技術の発達と工業塩の輸入により、他の塩田と同じく斜陽の運命をたどり、昭和三十五年に廃止となって約百五十年にわたる歴史を閉じたのである。

永田川両岸の塩田跡は埋め立てられ、住宅が建ち並んで往時の面影はなく、潮止めの水門にさえぎられとまどっている、満々と湛えた上げ潮の風景を見ると、はるかな時の流れをしみじみと思うのである。

(下関とその周辺 ふるさとの道より)(彦島のけしきより)


参考

下関市永田本町1丁目3−10 下関市立吉見中学校あたり