日没する処の天子が何故、日出する処の天子の存在を許したのか? | 日本の歴史と日本人のルーツ

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聖徳太子は隋の皇帝の元に小野妹子を遣わし国書を手渡しました。

有名な逸話に【日出処天子至書日没処天子無恙云々】(日出処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや…)と言う内容の国書を皇帝に奏上したが、これを読んだ隋の煬帝は激しく怒ったと言われている。

普通なら、二人の天子が同時に存在することは許されないはずで、小野妹子を殺すことのみならず日本も危険にさらされたはずである。しかしながら、何もなく、遣隋使の派遣を継続出来ている。

隋の皇帝の煬帝が日本を対等な帝国として認めたと考えられる。

実は、皇帝の煬帝と小野妹子は当時の原日本語で直接に会話出来て、同族であることを直ぐに直感したはずで、隋と日本が兄弟国であると認めて二人の天子の存在を受け入れたと推測される。


雑談1

小野妹子が帰国する時、隋の返答使として文林郎の裴世清を伴った。海路、筑紫(九州)を東に進むと、秦王国があり、華夏の言葉を喋る人々が住んでいると説明した。華夏とは漢民族の国のことであり、隋帝国の前にあった漢帝国のことである。

実は、下関の西海岸(北浦海岸)に綾羅木(アヤラギ)と言う地名があり、漢羅城(アヤラギ)すなわち「漢氏(アヤウジ)の王国」では!?と解釈した。漢氏は、『日本書紀』によれば後漢の霊帝の子孫と称する阿知使主を開祖とする氏族となっており(wikiより)、後漢が滅びて、日本に渡来して来たと考えられる。

だから、正しくは秦王国では無く漢王国と説明すべきであった。

ところで、小さな日本が天皇とか天子をいただく帝国を自称出来たのは、中国大陸を逃れて渡来して来た多民族の小さな王国の集まりであったと、自他共に認めていたからと思われる。

綾羅木郷遺跡の環壕と思しき溝の出土(東博、参考)、ここが一つの王国では!


雑談2

皇族の方々は◯◯王、??親王、そしてXX内親王と王が付くが、例えば英王室のプリンスオブウエールズ(ウエールズ公)やプリンスオブエジンバラ(エジンバラ公)などのプリンス・プリンセスと同じく、かつては小さな王国の代表であったのであろう。


参考

① 遣隋使派遣の意味

聖徳太子謎紀行(参考)

遣隋使は18年に渡り、5回以上派遣されていますが、歴史上遣隋使といえば、第2回目に小野妹子が遣隋使として派遣されたときのことをいいます。日本書紀には第1回目の記述がなく、第2回目からの記述になっています。遣隋使はわかりやすく言い換えると国家使節です。

・聖徳太子が隋に送った手紙

聖徳太子が小野妹子に持たせた手紙はあまりにも有名です。【日出処天子至書日没処天子無恙云々】(日出処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや…)これを読んだ隋の煬帝は激しく怒ります。どうしてそんなに怒ったのでしょうか。まず、日本を「日の出る国」、中国を「日が落ちる国」と表現したことに怒りました。もう一つは中国皇帝にしか使用されていなかった「天子」という言葉を「日出処の天子」と使ったことです。聖徳太子にしてみれば、それまでの日本は新羅や百済と外交があったけれども、これからは隋と対等の関係でいきましょうという意味が込められていたようです。

・隋からの返書

ここで一つの謎が浮かび上がります。聖徳太子が持たせて煬帝を怒らせてしまった手紙ですが、これには返事が書かれました。しかし、この返書を日本に戻ってくる間に小野妹子が紛失してしまったとも、百済で奪い取られたとも言われています。結局は日本に返書は持ち帰ることができなかったということです。ここで疑問が一つ沸いてきます。隋から日本に帰る途中で奪われたとされていますが、このときの船には中国から数十人もの人が派遣されていて、彼らを守る役目の人間も相当数いたはずなのです。そんな中で手紙を奪い取られるものなのでしょうか。一説によると、怒った煬帝の手紙はとても持ち帰って見せられる内容ではなく、小野妹子が隠れて処分してしまったとも言われています。このため小野妹子は流刑になったとも言われていますし、推古が、中国から派遣されている人達の前で、妹子を罰することはできないとして、何一つ責任を取らせなかったとも言われています。実際、その翌年に、第3回遣隋使として妹子は隋に派遣されています。



② 隋の皇帝は殷人の末裔であり、また縄文人の末裔であり、原日本語を喋っていた