中部幾次郎、マルハニチロの創業者 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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中部幾次郎翁銅像、兵庫県明石市明石公園1


砲手発射の瞬間

水産基地下関が大をなすに至ったについて中部幾次郎の名を逸することはできない。

中部幾次郎は慶応二(一八六七)年播磨国明石東魚町に生まれた。若い時から漁業運搬に励み次第に大きくなって行ったが、明治三七年三九歳の時に下関に根拠を置いた。そしてその翌年、鮮魚運搬船「新生丸」を造った。

(写真集 明治大正昭和 下関より)(彦島のけしきより)


解剖されつつある鯨

大正二年、四八歳の時、下関市竹崎町六六に本店を作り長男兼市を常住させた。大正四年方魚津を朝鮮漁業の本部と定めた。大正五年漁業の多角的経営と自給自足とを企図した。大正七年土佐捕鯨株式会社を買収し捕鯨業へ、第一歩を踏み出した。大正八年、彦島に林兼造船を設立した。

(写真集 明治大正昭和 下関より)(彦島のけしきより)


トロール鮮魚荷車積

大正九年五五歳の時に下関を根拠とする機船底曳網及び汽船トロール漁業の経営を開始した。いよいよ軌道に乗って来たわけである。大正一一年五七歳の時、わが国最初のブライン式彦島冷蔵庫の建設に着手した。また、小型冷蔵船を我が国の実情に合うと認め、播州丸三隻を新造した。

(写真集 明治大正昭和 下関より)(彦島のけしきより)


大洋漁業·南氷洋捕鯨へ

捕鯨砲によるノルウエー式捕鯨は、山田桃作·岡十郎によって創始された。

南氷洋への捕鯨船の出港は、大洋捕鯨が1936年(昭和11)で、1934年(昭和9) 日本捕鯨株式会社·図南丸に次ぐものであった。

最初の出漁で、シロナガス807頭、ナガス
クジラ279頭、ザトウクジラ30頭など豊漁で、鯨油1万5千トン、塩蔵尾羽3万5千貫を生産し、大成功であった。

大洋捕鯨は、捕鯨船を建造するについて、イギリスから217枚の設計図を15万円で購入。1部コビーをし、シベリア鉄道と、アメリカ経由の飛行機便で運んだが、すでに旧式の捕鯨船で役に立たなかったという。

(下関市年表より)(彦島のけしきより)


参考