綾羅木郷遺跡
1965年(昭和40) 当時は、日本の工業生産が飛躍的に発展していた。当時、自動車エンジンの鋳型造りには純度の高い 硅砂が必要だった。全国で採掘が進み、綾羅木郷台地でも高純度の硅砂が発見された。
業者との間に、発掘調査が終って硅砂の採掘を行う約束が行われた。調査が始まると、膨大な数の貯蔵用の竪穴や大きな溝の中から大量の弥生土器・石器などのほか、大量の遺物が発見され、保存運動が進められたため、史跡への指定を阻止する目的で、遺跡の一部が破壊された。
文化財の保護か産業の振興が優先するかの論争の中、遺跡の保存を優先するため文部省(現·文部科学省)は、我国で初めて異例の国指定の史跡として指定を行った。
(下関市年表より)
迫り来るブルドーザー(下関市綾羅木·昭和44年)
珪砂採掘業の暴挙に怒った市民は、当時の市長を先頭にして採掘反対の運動を展開。経済優先主義との戦いの中で、埋蔵文化財保護の重要性を全国に訴えた。
(下関・豊浦の100年より)
文化庁による緊急指定(下関市綾羅木·昭和44年)
文化庁でも異例の迅速さで史跡指定が行なわれ、業者の採掘にひとつの歯止めがかけられた。これに勇気づけられた調査団は、その後も発掘を続け、昭和47年をもって、いったん調査を終了させた。
(下関・豊浦の100年より)
綾羅木郷遺跡発掘調査(下関市綾羅木·昭和44年)
弥生時代の遺構として800にもおよぶ貯蔵用縦穴と、断面がV字状をした3本の大きな溝が見つかった。また、土器を中心として大量の遺物が出土。規模が大きく重要な弥生遺跡とされている。
(下関・豊浦の100年より)
下関市立考古博物館の開館(下関市綾羅木,平成7年)
史跡指定から26年の歳月を経て、史跡公園の隣接地に下関市立考古博物館が誕生した。同館は下関市における考古学研究の拠点づくりであり、また市民運動の結実でもあった。
(下関・豊浦の100年より)
綾羅木郷遺跡
弥生時代の遺跡。明治 32年頃に土器や石斧が発見され、昭和31年以降、本格的に発掘調査が行われた。しかし同地に良質な珪砂が埋蔵されていることから採取権を持つ業者が遺跡を破壊。
これを受けて緊急発掘を行った。昭和44年には国の史跡に指定されている。以後、産業の振興と文化財保護が裁判で行われたが、文化財保護が優先され、全国へ波及した。〈綾羅木·昭和40年·撮影=グループSYS〉
(下関市の昭和より)
参考