西之端大通り、下関市田中町 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

旧宮崎商館から現田中絹代ぶんか館が面した通りは、かつて西之端大通りと呼ばれ、金子みすゞが勤務した商品館もあり、賑やかであった。

左手前: 旧商品館跡(金子みすゞが勤務)、右手: 旧宮崎商館(藤原義江の生家)、右手奥: 旧電話局(現田中絹代ぶんか館)

中央を東西に伸びる道: 下関市田中町の旧宮崎商館が面した通り、かつての西之端大通り

北から南に流れる田中川の弁天橋を越えると、幕末、伊藤博文と梅子夫妻の新居があったと言われている。また、右の戦後に作られた道路(下関港線)あたりに、幕末の豪商、入江和作邸があった。


参考

① 旧宮崎商館

関門ノスタルジック海峡(参考)


宮崎商館は石炭商の事務所として唐戸桟橋からほど近い下関市田中町に明治40(1907)年に建てられました。戦後は生命保険会社や化粧品会社の事務所として利用され、その後、昭和40年代から近年まで美容室として使用。平成20(2008)年に改修工事が行われ、現在は1階が医院、2階の一部は下関市出身の女優・木暮実千代に関する資料を展示しています。

もともと、神戸で石炭輸出業を興した宮崎儀一は、明治26(1893)年に下関に支店を開設後、拠点を下関に移しました。その頃の下関港は、船舶用燃料の貯蔵や補給のための給炭港として注目されていて、明治22(1889)年には、筑豊炭田への進出を始めた三菱社が筑豊炭の販売と積出のために下関三菱炭坑出張所を開設しています。

さらに給炭において大規模な事業を展開した英国系のサミュエル・サミュエル商会が、市内の西南部町に支店を設置。また、大正9(1920)年には“筑豊御三家”と言われた地元資本の石炭企業である貝島合名会社が下関英国領事館の北方にあたる大字唐戸町2番地に本社を移転するなど、石炭事業を営む大手企業が下関に進出しました。

貝島合名会社の本社となった煉瓦造3階建の建物は、ジャーディン・マセソン商会下関支店だった建物です。戦時中に焼夷弾による空襲の直撃に遭い、戦後解体されました。この建物の3階部分の外観と旧宮崎商館の2階ベランダは、規模の違いはありますが、ほぼ同じデザインです。

本建物は、美容院に転用されるときに大規模な改造が行われたと見られ、内部は大きく様変わりしていますが、平面構成の一部は旧下関英国領事館と同様です。また、見所で触れるように、外観は旧下関英国領事館との類似性が見られます。なお、窓廻りは全て変更されていましたが、明治末年ころの古写真をもとに形状が復原されました。

建物正面に面する街路はかつて西之端大通りと呼ばれ、古写真を見ると、旧宮崎商館がこの通りを象徴する建物であることが分かります。また、現在も残る旧電話局舎とともに、歴史的景観を形成しています。

このほかに、当地において往時の下関港が給炭地の役割を担っていたことを示す、唯一の建造物であることも重要です。


② 旧宮崎商館は藤原義江の生家(参考)


③ 道路を挟んで、金子みすゞが勤務した商品館があった(参考)