江戸時代、飢饉が多発した。例えば天明の大飢饉でも、100万人にも及ぶ餓死者を出したと言う。
当時の天皇、光格天皇は民の安寧を祈り、幕府に対し窮民の救済策を求めた。結果、幕府は米千五百石を放出せざるを得なくなった。
参考
① 【私説・論説室から】光格天皇の祈りは
現在の天皇家は、江戸時代の光格天皇の血統を継いでいる。後桃園天皇に男子がいなかったため、閑院宮家という宮家から天皇の養子になり、皇位に就いた人である。その後、仁孝、孝明、明治、大正、昭和とつながる。だから“光格系”の血筋といえる。
この光格天皇の時代を調べると、ちょうど「天明の大飢饉(ききん)」と重なる。一七八二(天明二)年から始まる江戸時代で最悪の飢饉である。死者数は百万人とも。大洪水や地震、浅間山の大噴火などが原因とされる。世界的な異常気象だったともいわれる。
苦しむ民衆が京都御所の周囲を巡り歩く「千度参り」が起きた。八七(天明七)年のことだ。その数や三万人から七万人にも上ったという。事態を深刻に思った光格天皇は、幕府に対し窮民の救済策を求めた。幕府は米千五百石を放出せざるを得なくなった。
天皇の歌だと評判になったのが「身のかひは何を祈らず朝な夕な 民安かれと思ふばかりぞ」-。自分のことでなく、民の安寧を思うばかりだ-の意味だ。でも、どうやら天皇の歌ではないらしい。それだけ民の心が集まった証左なのだろうか。
平成の世も災害が多かった。阪神と東日本の大震災があった。自然災害で各地を回った上皇さまは、光格天皇の事績をよく調べられていたのではないか。有名な歌も胸に。 (桐山桂一)
②-1 寛永の大飢饉の原因や影響(参考)
1638年(寛永15)九州で牛疫という感染病が流行し、西日本各地で牛が大量に死んでしまうという被害がありました。
2年後には、北海道にある蝦夷駒ヶ岳という山が噴火し、噴火によって降った灰のせいで現在の青森県などでは凶作が起きてしまいました。
翌年の1641年は、夏には西日本(特に中国や四国地方)で、日照りによる干ばつが起きてしまった上に、秋には大雨で、北陸地方では長雨や冷風などによる被害が出ました。
この年は他にも洪水や虫害など、異常気象が多く発生しました。太平洋側よりも日本海側の方が被害は大きかったといいます。
異常気象による農作物の不作は、翌年まで続くことになります。
農作物の不作が続くということは、人々が食べる物が少なくなってしまうということ。そのため、全国的に飢饉の被害が広がったのです。
また、幕府は武士に対して倹約を推し進めていたなか、参勤交代というお金がかかる仕事もなるべく倹約するようにと呼びかけていました。
武士はお金に困ると、百姓に対してより厳しく農作物を取り上げます。
この幕府と武士の関係も、大飢饉の要因の一つとなったといいます。
結果的には、餓死者は全国でおよそ5~10万人といわれる。
津軽地方では1772年〜1781年(安永年間)にはすでに凶作の兆しがありました。
1783年(天明3)の夏には東北地方に冷たく湿った風「やませ」が吹いて、冷害の被害にあいました。
この冷害が飢饉の前触れになるなか、同年の8月5日、長野県にある浅間山が噴火します。
噴火によって灰が広い範囲で降り、特に信濃や北関東地方の被害は大きく、灰のせいで農作物は育たず、飢饉へとつながりました。
大飢饉が起きたのは気象条件や噴火も大きな理由ですが、当時の政治も原因の一つだったと言われています。
封建制度の下に置かれた農民は、厳しい税(農作物)の取り立てに応じなくてはいけません。
加えて、幕府と藩の連携が取れていないため、作物が中央にまで届かず、本当に必要な人のところへ送られないという社会的に悪い状態が、飢饉の被害をさらに広げたのです。
陸奥地方では食べるものに困り、人肉を食べたという話が残されているほどで、八戸藩(青森県)だけでも飢饉の被害者は6万5000人にのぼり、そのうち餓死者は3万人ほどいたと記録されています。
浅間山の大噴火・洪水被害・病死者数を含め、全国で死者数は100万人余となったと言われています。
飢饉{ききん}の際、救小屋{すくいごや}に収容され保護を受ける罹災民{りさいみん}を描いたもの。渡辺崋山{わたなべかざん}画『荒歳流民救恤図{こうさいりゅうみんきゅうじゅつず}』1838年(天保9)国立国会図書館所蔵 (コトバンクより)
④ 天皇の役割とは国民の安寧を祈ること