昔の田植え | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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昭和30・40年代までの、クボタ、ヤンマー、イセキなどの田植機の無い時代、数人の雇い人を家に泊めて一気に田植えを済ませた。当然、秋の穫り入れも同様であった。

子供であった著者も当然、手伝っていた。

著者の住む福江では豊北町あたりの人を雇っていたようだが、農作業の時期を互いにずらして、他地区の農作業に出かけていた。近所の友人の記憶では豊北町田耕地区の人を雇っていたとか!


参考

滝部の奉公市 (下関市豊北町 昭和3年) 

奉公市は雇用者と被雇用者とが対等の立場で互いに感謝し、共益の立場で農作業に関して随意契約を結ぶ労働市場である。奉公市は主として田植、稲刈りの農繁期前に行われ、周辺漁村の若い娘を対象とする年期契約であった。

交渉は、路上や人家の軒下、飲食店で行われた。昭和8年(1933)には両者が交渉する建物「互恩館」ができた。

写真は昭和3年5月の滝部奉公市のようすである。

市日は毎月、朔日 (毎月の1日),10日、20日に開かれ、にぎわっていた(下関市立豊北歴史民俗資料館所蔵)

(保存版「ふるさと下関」より)