参考
① 貴布祢神社
貴布祢神社拝殿(下関市彦島老町·大正15年)
牛の宮とも呼ばれ、福浦家畜検疫所が全盛だった頃は毎年5万頭に及ぶ朝鮮牛の疫病予防祈願で賑わい、秋分の日の奉納角力は関西·九州からも力自慢が馳せ参じた。
(.下関・豊浦の100年より)
② 福浦家畜検疫場(参考)
農林省動物検疫所門司支所福浦検疫場に「畜魂碑」があった。
福浦検疫場は、明治37年に下関牛疫検疫所として福浦海岸派出所を設置したのが始まり。福浦検疫場は昭和40年1月26日に閉鎖されたが、「畜魂碑」の前で、牛疫などの疫病で殺された数多くの牛の霊を慰めるため、僧侶の読経が行われ、閉鎖式が終了した。
この碑は昭和45年頃まで福浦検疫場跡に建っていたが、関門港に入る家畜類の検疫を輸出入検疫所門司支所田野浦検疫所がはじめたので、碑もそちらに移され、さらに福岡市へと移されてしまった。
・参考文献 [下関市教育委員会1991]
・現在の畜魂碑の位置: 福岡市
33.590394 130.401704
中里亜夫 福岡教育大学教育学部教授
明治期の牛疫流行は、基本的には朝鮮半島経由の系統であり、主に西日本の牛卓越地域に於て展開し、約8万頭の牛が斃死・撲殺された。特に、農村地域よりは都市的地域つまり沿岸低地に於てその流行頻度が高く、その被害も多かった。つまり、牛疫伝播は主に既存の生牛取引・流通の地域システムに依拠するが、明治期に新たな展開をみた屠牛(肉用)流通や乳牛飼育や取引の盛んな都市地域を中心にして、これら新しく形成された屠牛・乳牛流通機構・経路を通じての牛疫流行がみられた。
朝鮮半島や中国大陸からの生牛輸入は、特に日露戦争後に増加する。輸入業者は、九州、中・四国地方の出身者が多く、海港検疫港の指定変更や度積なる中疫に悩まされながら、和船(約30頭程度)で連れ移り既存の販売ルートしその他屠中や乳牛等の都市需要向けルートで販売した。その為に、牛疫流行は、朝鮮牛取引をめぐる流通面での混乱を招き、生中馬流通に大きな影響を与えた。その後、汽船就航や陸揚げ港の固定及び屠場法(同39年)や家畜市場法施行(同44年)により朝鮮中取引が山口県下の下関や彦島(福浦部落)に一本化され、中疫流行が下火となり、家畜散引に於ける全国都場に組み込まれた。