愛新覚羅溥傑・浩夫妻の家 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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愛新覚羅溥傑・浩夫妻(wikiより)


① 愛新覚羅溥傑仮寓、千葉市ゆかりの家・いなげ

千葉市稲毛区稲毛1丁目1−16−12 千葉市ゆかりの家・いなげ


② 嵯峨浩の実家、杉並区立郷土博物館の土地

杉並区立郷土博物館、杉並区大宮1丁目20−8


参考

① ラストエンペラーゆかりの地(参考)

杉並から稲毛まで


「ラストエンペラー」という映画があった。坂本龍一が音楽を担当しアカデミー賞を受賞した作品だ。

ラストエンペラーとは中国の清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)のことである。その弟は溥傑(ふけつ)といい、日本の陸軍兵学校に在籍していた。

あるとき溥傑はある女性を見初め、是非とも結婚したいと思った。日本政府としては日中関係のためにもそれがよいと考え、昭和12年(1937)二人は結ばれた。

女性は嵯峨公爵の長女・浩(ひろ)だった。国策結婚とも言える結婚だったので浩は大変に迷った。しかし陸軍がどうしてもと迫ったのと、溥傑自身はとても純粋な気持ちだったので、浩はプロポーズを受けたのである。

浩の家は杉並にあった。現在杉並区立郷土博物館が建っている場所である。婚礼の儀に向かうときはそこから馬車に乗り、青梅街道から九段の軍人会館(今の九段会館)に向かった。

二人が新婚時代のわずか半年を過ごしたのが千葉市の稲毛だった。浅間神社の脇の丘の上の木造住宅である。今も家が残っており「千葉市ゆかりの家。いなげ」として公開されている。

「白砂青松」の景勝地


ラストエンペラー実弟と新婚の家にしては慎ましいなと私はその家を見て思ったが、室内には仲の良い二人の写真が飾られていてほほえましい。

だが戦争が烈しさを増していた。幸せな新婚時代もつかの間、二人は中国へ行き、そこから波瀾万丈の生涯が待っていたが、それについては本稿のテーマではないので書かない。

二人が過ごした家からは、下るとすぐ遠浅の海が広がっていた。

明治21年(1888)には千葉県初の海水浴場が開かれ、医師の濱野昇により「稲毛海気療養所」が設立されていた。ゆかりの家から浅間神社境内を挟んで東側である。

当時は海水浴が各種の病気の治療に役立つと考えられていて、療養所には、海水温浴場、冷浴場、遊技場、運動場などが備わっていた。

明治24年(1891)発行の「千葉繁昌記」によれば、海に面して高台があり、緑の美しい松の木が立ち並び、砂浜は白く美しく、海の向こうには右に富士山、左に房総の山地が見え、海には帆舟がつねに往来し、その美しさは何とも言い難いもので、誰でも一度ここを訪れたなら、間違いなく賞賛するほどだったという。いわゆる「白砂青松」(はくしゃせいしょう)の景勝地だったのだ。

だが今は道路と団地ばかりで賞賛すべき風景はない。


② 千葉市ゆかりの家・いなげ(愛新覚羅溥傑氏仮寓)(参考)

昭和12年の半年、愛新覚羅溥傑ご夫妻が新婚生活を過ごした家


大正初期に建てられた別荘は、平屋の主屋と庭の離れから構成されており、内は、漆塗りの枠の腰付障子、菱格子で飾られた欄間、高く張られた格天井などの意匠が凝らされています。居間には洋間が付いていますが、これは離れを築いた時の増築です。保養地としての稲毛の歴史を今に伝える貴重な和風別荘建築として、千葉市地域有形文化財(建造物)に登録されています。

昭和12年、愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)の弟、溥傑(ふけつ)と嵯峨公爵の長女、嵯峨浩が新婚時代を過ごしたのがこの家です。溥傑は当時、千葉市作草部町(現・千葉市稲毛区天台)にあった陸軍歩兵学校に在籍した関係で、この家で暮らしたのです。


愛新覚羅溥傑(あいしんかくら ふけつ)

清朝最後の皇帝で、のちに満洲国皇帝に即位した愛新覚羅溥儀の実弟。昭和4年3月に来日し、学習院高等科に入学。昭和7年、満州国建国で兄の溥儀が満洲国執政(のちに満洲国皇帝)。昭和8年9月、陸軍士官学校本科入学、昭和10年7月に卒業、見習士官に任官。昭和12年4月3日、東京の軍人会館(現・九段会館)で嵯峨浩(さがひろ)との結婚式が行なわれ、陸軍歩兵学校に在籍中ということで稲毛で新婚生活をおくります。昭和12年9月に溥傑は満州国禁衛歩兵連隊(新京)歩兵上尉(大尉)に任官し満州に移り、10月には浩が満洲国首都新京へ渡り、ふたりの暮らしは満州国に移っています。第二次大戦後は戦犯となりますが、文化大革命後には中華人民共和国全国人民代表大会常務委員会委員となっています。



③ 愛新覚羅社、下関市綾羅木本町の中山神社の摂社(参考)

愛新覚羅社、下関市綾羅木本町

中国清朝最後の皇帝で満洲国皇帝であった宜統帝(薄儀)の弟、愛新覚羅薄傑(あいしんかくら ふけつ)、及び彼の妻で忠光のひ孫にあたる浩(ひろ)を祭神とする「愛新覚羅社」が祀られている。

皇帝溥儀には子供が無かったが、溥傑と浩の夫妻の子孫が日本に健在である。


④ 嵯峨浩の曽祖父の中山忠光を祀る中山神社と愛新覚羅社