明治維新に関し、戊辰戦争も西南戦争も共に起こる運命にあった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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戊辰戦争は薩長を中心とした官軍と、最後まで幕府と武士を擁護した奥羽越列藩同盟の賊軍の戦いであった。

長州藩は初めから尊皇攘夷の観点から倒幕を目指したが、薩摩、土佐、肥後などの官軍諸藩は同床異夢の公武合体の観点から、天皇と武士による政権を目指して倒幕を進めた。

いざ明治新政府が出来てみると、幕府を倒す功労のあった武士達の立場が微妙になった。武士の特権と俸禄を無くさない限り、西洋列強に対抗し富国強兵を進める明治新政府は運営出来なかったし、四民平等を目指す農工商身分の庶民の世論が納得しない。

これに対し西南戦争は、武士の特権を廃した四民平等の社会を目指す明治新政府と既得権を手放したくない武士達の最後の戦いであった。

すなわち、戊辰戦争と西南戦争は共に武士達の生き残りをかけた戦いであった。明治という元号は1868年であるが、真の明治維新の達成は1877年(明治10年)と考えられる。


雑談1

坂本龍馬は公武合体の観点から活動しており、これは長州藩の尊皇と草莽崛起の思想とは一致していない。

結果的には、長州藩は坂本龍馬をうまく利用して薩長同盟の締結に成功したことになり、ついには、お荷物の薩摩藩の西郷隆盛と武士達を西南戦争で下したことになる。

長州藩の強かさが伺える。


雑談2

西南戦争後も明治新政府に批判的な旧武士達が残存し(参考)、例えば、特に旧会津藩など東北地方の旧藩士の末裔達に今でも遺恨が残っているようだ。


参考

① 戊辰戦争と西南戦争…「会津と熊本」 新式銃や日本刀など展示 熊本市の田原坂資料館

熊本日日新聞(2018.12.21、参考)





熊本市田原坂西南戦争資料館(北区植木町)で、明治維新150年の特別企画展「会津と熊本」が開かれている。戊辰戦争の中でも激戦だったことで知られる会津戦争と、熊本が主戦場となった西南戦争という二つの内戦を対比し、戦いから見た近代化を探っている。来年1月30日まで。

会津戦争は1868(慶応4)年、奥羽越列藩同盟の中心となった会津藩が新政府軍に抵抗した。新式の銃が使われたほか、9年後に起きた西南戦争と同じ籠城戦が繰り広げられた。会津戦争で新政府軍と戦った会津藩士が、西南戦争では新政府軍に加わっており、企画展は、その関連性に着目した。

会津戦争で使われた砲弾や幕末から明治初期を代表する日本刀などのほか、阿蘇で壮絶な死を遂げた元会津藩家老で「鬼官兵衛」と呼ばれた佐川官兵衛の遺品も展示。阿蘇のヤマザクラを詠んだ佐川直筆の短冊からは戦争の激しさや会津と熊本を結んだ人間ドラマに思いをはせることができる。

南阿蘇村の「鬼官兵衛記念館」に足を運んだことを機に関心を持ったという阿蘇市の公務員、大津花さん(23)は「阿蘇に4日しかいなかった官兵衛が、なぜ今でも語り継がれているのか知ることができて興味深かった」と話した。

開館は午前9時から午後5時まで。入館料は小中学生100円、高校生以上300円。同館TEL096(272)4982。(小山智史)

(2018年12月21日付 熊本日日新聞朝刊掲載)


② 九州の武士と東国の武士は同族で、共通の気質や価値観を持っていた