征韓論の西郷隆盛は明治新政府に反乱する運命にあった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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征韓論を主張していたのは、留守政府の首脳であった西郷隆盛(薩摩藩)・板垣退助(土佐藩)・江藤新平(佐賀鍋島藩)・後藤象二郎(土佐藩)・副島種臣(佐賀鍋島藩)らであった。彼らは王政復古後の薩長土肥の四藩の内、長州藩を除いた代表者達だった。そして、彼らの征韓論の主張が敗北し、彼らは政権から下野することになる。その後、秩禄処分と前後して、彼らの所属する藩の藩士達は反乱を起こしたり、明治新政府を批判する自由民権運動を立ち上げたりすることになる。

改めて幕末から明治10年の西南戦争まで俯瞰すると、、、

薩長土肥の四藩は幕府を倒して明治維新を進める初期の有力藩であったが、長州藩は最初から四民平等(草莽崛起)による倒幕であったが、その他の三藩は元々、頼りにならない幕府を倒して、新しい公武合体の新政府の樹立を目指していた。ところが、実際に明治新政府を立ちあげると、武士達をそのまま世襲の公務員とするには、ほとんどの国家予算が武士達の給与に使われてしまうことになるのは誰の目にも見えていた。

だから、実際には明治新政府の役人は別途、四民平等、実力本位で採用され、武士達の古来からの兵士の役割も国民からの徴兵制となり、武士の未来が不透明となっていた。例えば、薩摩藩兵の一部を天皇の御親兵としたり、警視庁の警官にしたが全員を満足させることは出来なかったようだ。その為、各地で武士達の不平・不満が高まり、反乱の兆しが生じていた。武士達は自分達が必要とされる戦争を希望し、征韓論を西郷隆盛に代弁させたと考えられる。

明治新政府は明治7年に台湾に出兵するが、何故、征韓論だけが明治6年に否定されたのか?この違いの理由は、征韓論を西郷隆盛が主張したからである。もしも木戸孝允が主張しておれば、武士に頼らず国民の兵隊によって征韓論が実行された可能性はあり得る。

西南戦争での西郷隆盛と幕僚達(wikiより)

西南戦争に向けて横浜港から出発する政府軍の兵士達(wikiより)


西南戦争後:

江戸時代までの特権を失った士族達は自ら仕事を作ったり、北海道などの開拓に従事したりして苦労したようだ(参考)。また、政治家になったものは自由民権運動から議会制度と普通選挙を要求して、これを実現し、旧盛岡藩出身の原敬は内閣総理大臣にまでなった(参考)。また、帝国陸海軍の職業軍人になったものが国政を左右するようになり、戊辰戦争で賊軍に属した旧藩出身者が大東亜戦争を主導した(参考)。


参考

①-1 征韓論(せいかんろん、wikiより)

日本の明治初期において、当時留守政府の首脳であった西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らによってなされた、武力をもって朝鮮を開国しようとする主張である(但し、史実として、征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は、板垣らの主張する即時の朝鮮出兵に反対し、開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴く、むしろ「遣韓論」と呼ばれるものであり、事実、遣韓中止が決まる直前では西郷の使節派遣でまとまっていた。)。

西郷隆盛の死後、板垣退助らの自由民権運動の中で、板垣の推進する征韓論は西郷の主張として流布され、板垣ではなく西郷が征韓論の首魁として定着した。


①-2 明治六年政変(wikiより)

征韓論に端を発した明治初期(1873年)の一大政変。当時の政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞した。征韓論政変とも。


② 公武合体(こうぶがったい、参考) 

朝廷(ちょうてい)と幕府が協力して政治を行おうという方針。1860年(安政7年・万延元年)に大老・井伊直弼(いいなおすけ)が暗殺されてから強いリーダーを失った幕府は、朝廷と手を結ぶ方針をとり、当時の孝明天皇(こうめいてんのう)の妹・和宮(かずのみや)と将軍・徳川家茂の結婚を実現させるなどして、天皇の権威(けんい)をかりて幕府の権力をとりもどそうとした。

外国と結んだ条約を破って、あくまでも攘夷(外国うちはらい)をおこなおう、という長州藩を中心とした尊皇攘夷(そんのうじょうい)派と、福井藩や土佐藩・薩摩藩などの公武合体派は対立し、一時は尊皇攘夷派が京都から追放され、力を失った(8月18日の政変・禁門の変)。

一方、公武合体派も、あくまで幕府中心での政治をめざす考えと、福井・薩摩・土佐など大名たちが会議をおこして共同で政治をおこなうという考えが対立し、やがて薩摩藩が公武合体での改革をあきらめて、武力での倒幕(とうばく:幕府をたおす)をめざす長州藩と同盟をむすんだことで、倒幕の流れが一気に強まった。

福井藩や土佐藩はそんな中でもあくまで戦争を避け、朝廷の下で諸大名が連合する形の政治をめざし、将軍・徳川慶喜に大政奉還(たいせいほうかん)を提案、慶喜がこれを行った。

しかし薩摩藩と長州藩はあくまで武力で幕府を倒すことにこだわり、幕府軍をしきりに挑発したことから、戊辰戦争(ぼしんせんそう)がおこり、薩摩・長州を中心とした官軍が勝利して、明治新政府が成立した。


③ 鍋島直正(鍋島閑叟)(参考)

肥前の妖怪と恐れられた鍋島閑叟。日本一の西洋式軍隊を保持した殿様は何を考えていたのでしょうか。

倒幕の機運が高まり、薩摩や長州が中心となっていよいよ武力で幕府を倒そうということになったわけですが、佐賀藩は最後の最後まで倒幕派に加わろうとはしませんでした。当時の佐賀藩の軍事力は図抜けていましたから、新政府軍が何度も参戦を要請してきたにもかかわらず、『長崎警護』を理由にのらりくらり引き伸ばしていたようです。

佐賀藩が最終的に倒幕に加わったのは鳥羽伏見の戦いが起こって、新政府軍が錦の御旗を掲げ、朝敵となるのを恐れた徳川慶喜が江戸に逃げ帰った後のことです。それまで佐賀藩は軍隊を有田の港に停泊させ、勝敗のゆくえを見極めようとしていました。


④ 土佐藩は公武合体派(wikiより)

公武合体論と内戦回避を持論とし、大政奉還の影の立役者となった坂本龍馬の影響を受けた元土佐藩士の後藤象二郎と板垣退助は明治六年政変で失脚後は自由民権運動に尽力。


⑤ 士族の反乱(wikiより)

明治六年政変で西郷隆盛、江藤新平、板垣退助らが下野すると士族層に影響を与え、明治政府に反対する士族は「不平士族」と呼ばれた。

1874年に江藤が故郷の佐賀県で擁立されて反乱(佐賀の乱)し、1876年には熊本県で神風連の乱、呼応して福岡県で秋月藩士宮崎車之助を中心とする秋月の乱、10月には山口県で前原一誠らによる萩の乱など反乱が続き、それぞれ鎮圧された。

1877年には旧薩摩藩の士族が中心になり西郷隆盛を大将に擁立して、日本国内では最大規模の内戦となる西南戦争が勃発。西郷隆盛に呼応する形で福岡でも武部小四郎ら旧福岡藩士族により福岡の変が起こった。政府は反乱軍の2倍以上の兵力を投入し鎮圧したが、兵数、装備、兵站など、政府軍はあらゆる面で西郷軍より有利な条件を有していたにもかかわらず、同等の戦死者数、戦傷者が発生するなど、政府の軍事的な弱さを露呈する結果ともなった。この戦いは日本のその後の富国強兵政策の礎になった。また、いわゆる薩長土肥出身者による藩閥を生むことにもなった。

西南戦争以後、不平士族の反対運動は反乱に加担しなかった板垣らを中心に、国会開設や憲法制定を要求する自由民権運動に移行する。


⑥ 秩禄処分(ちつろくしょぶん、wikiより)

明治政府が1876年(明治9年)に実施した秩禄給与の全廃政策である。秩禄とは、華族や士族に与えられた家禄と維新功労者に対して付与された賞典禄を合わせた呼称。経過措置として公債が支給された。支配層がほぼ無抵抗のまま既得権を失ったという点で、世界史的にも稀な例とされる(落合、1999)。


⑦ 徴兵令(ちょうへいれい、wikiより)

明治22年1月22日法律第1号は、国民の兵役義務を定めた日本の法令。1873年(明治6年)に陸軍省から発布された後、太政官布告によって何度か改定が繰り返された後、1889年(明治22年)に法律として全部改正された。1927年(昭和2年)の全部改正の際に、題名も「兵役法」に変更され、1945年(昭和20年)に廃止された。


⑧ 台湾出兵(wikiより)

1874年(明治7年)10月、台湾に漂着した宮古島島民54人が殺害される事件(宮古島島民遭難事件)が発生した。この事件に対して、清政府が「台湾人は化外の民で清政府の責任範囲でない事件(清政府が実効支配してない管轄地域外での事件)」としたことが責任回避であるとして、犯罪捜査などを名目に出兵したもので、54人殺害という大規模な殺戮事件であるため、警察ではなく軍を派遣した。明治新政府軍としては初の海外派兵である。


⑨ 西郷隆盛と大久保利通 「征韓論」で決別した本当の意味

iRONNA(2018.12.18、参考)

家近良樹(歴史学者、大阪経済大特別招聘教授)

西郷隆盛の朝鮮への使節としての派遣が阻止される上で、最大の役割を演じたのは、言うまでもなく大久保利通であった。むろん、事の重大性からいって、大久保がおいそれと自ら手を挙げて、こうした役割を積極的に果たそうとしたわけではなかった。あくまで、きっかけを作ったのは伊藤博文ら長州藩出身の政府要人であった。

伊藤らから執拗に参議への就任を要請され、苦渋の末に承諾を与えてから以後の大久保は、文字通り決死の覚悟をもって西郷の朝鮮使節を葬(ほうむ)る活動に従事する。彼が、この問題に生命を賭けたことは、息子に宛てた「遺書」の内容によって容易にうかがわれる。

さて、続いて大問題となるのが、大久保が西郷の派遣を断固阻止しようとした理由である。これに関しては、公的な(表向きの)理由と、私的な(個人的)理由の双方が挙げられる。

前者は、やはりなんと言っても、彼が欧米諸国を模擬した近代国家を建設しようとしたことに関係した。大久保は、これより前の1年半余、日本を不在にした。言うまでもなく、欧米に渡航した「岩倉使節団」への参加のためである。

そして、この過程で、絶望感に時に激しく襲われながらも、欧米諸国をモデルとする国家建設のプランを抱いて日本に帰ってくる。これに次いで、参議に就任した後の明治6(1873)年10月14日の閣議の席で、真正面から西郷の朝鮮への即時派遣に異議を唱えた。

残念ながら、この日、大久保が閣議の席でどのような主張をしたのかは不明である。具体的な発言内容を記した史料が一切存在しないからである。ただ、この日の大久保の発言内容は、ほぼ推測しうる。

先述の「遺書」とこの頃に記されたと思われる彼の「意見書」が存在するからである。そこから浮かび上がってくるのは、大久保が西郷の派遣が朝鮮との戦争に直結することを危惧し、かつ財政、内政、外交上の困難をもたらすので、反対しただろうというものだ。

大久保の主張で特に留意すべき点が二つある。第一点は、西郷の即時遣使は「深謀遠慮」に欠けるとしたことだ。大久保によれば、国家を運営し、かつ国土と国民を守るためには、「時勢」を考慮し、そのうえ国家や国民の将来を見据えて決断を重ねなければならないものであった。すなわち、そうした点で、西郷の派遣はあまりにも「深謀遠慮」を欠く性急な決定の上になされたと批判したのである。


第二点は、朝鮮が、慶応2(1866)年と明治4(1871)年に、それぞれ軍事挑発を仕掛けてきたフランスとアメリカ両国の艦隊と戦い、撃退することに成功した例をもって、西郷の派遣は同国との開戦に繋がりかねないとみたことだ。

さらに大久保は、朝鮮と戦端を開くようになった場合、極東地域に領土的野心を持つロシアに「漁夫の利」を得られかねないとも考えた。その上で大久保は、もし朝鮮との戦争になれば、膨大な額にのぼる軍事費が深刻な財政危機を招来し、その後士族反乱や民衆騒擾といった困難な国内状況を招きかねないと冷静に判断し、西郷の派遣をあくまで阻止しようとしたのである。

如実に出た大久保の性分

次いで、大久保が西郷の即時派遣に反対せざるを得なかった私的な理由に筆を及ぼすことにしたい。そして、ここに大久保の政治家としての本質も、彼が本来有した陰湿な性分も、ともに如実にあらわれる。

大久保が西郷の派遣に反対した私的な理由(むろん、それは半ば公的な理由でもあったが)の最たるものとしては、彼が欧米流の近代国家を建設する上で、大きな障害となると判断した勢力を至急排除しようとしたことが挙げられる。

排除の対象となったのは、征韓を希求する西郷とその配下であった。具体的には、廃藩置県後も鹿児島にあって、政府の推し進めようとする近代化路線に抵抗し続けていた島津家武士、および東京で征韓の実行を求める軍人、兵士であった。

それと、岩倉使節団派遣中の留守政府内にあって台頭してきた土佐(高知)、肥前(佐賀)出身の政府高官であった。板垣退助や江藤新平、後藤象二郎といった面々がそれに該当した。

彼らは筆頭参議であった西郷の承認の下、それぞれが主導して、銘々が信じる近代化政策を推進していた。そして、長州派を含む大久保らの目にはおそらく、それは薩長出身者が主流の座を占めてきた新政府のこれまでのあり方を改変しようとする、真にけしからぬ動向と映ったに違いない。

そういう意味では、大久保や伊藤らは、早急に土佐、肥前出身の新任参議らの政府内からの追放と、自分たちの主導権の奪回(回復)を図らねばならなかったのである。そして、その対象には、新たに参議職に就くことになった肥前出身の副島種臣も含まれたと考えられる。

副島は元来、大久保にとっては貴重な囲碁仲間であったが、当時西郷の朝鮮への派遣に積極的な賛意を表するようになっていたからである。また、大久保にとって、外務卿でもあった副島の主導する外交路線は古臭く、到底近代国家のそれにふさわしいものではなかった。

以上、大久保が西郷の派遣を阻止するに至った背景をごく簡単に振り返ったが、もし彼がこうした行動に出なかったら、近代日本の進路は、われわれの知るそれとは大きく異なるものとなった可能性は大であろう。

そういう点で、大久保個人の果たした役割は非常に大きなものがあった。朝鮮使節を志願し、そのことで政局に大混乱をもたらした西郷とともに、維新が「西郷と大久保の時代」でもあったと、しばしば見なされるのは、こうした歴史的経緯があったからなのである。


10 長州藩の進めた明治維新は四民平等(草莽崛起)を目指しており、日本全国の百姓(農工商)を味方につけていた