賊軍であった旧盛岡藩から原敬と言う総理大臣が生まれた | 日本の歴史と日本人のルーツ

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賊軍となった旧盛岡藩から平民宰相と呼ばれた原敬が出てきた。彼の先祖は旧盛岡藩の家老であった。しかし、この旧盛岡藩出身者である原敬は旧長州藩の伊藤博文と井上馨の勧めで政治家になっている。

能力さえあれば、差別されることなく明治時代の官吏にも政治家にもなれたことの証明である。

賊軍となった奥羽越列藩同盟の諸藩の士族は差別されて苦しめられたと言うが、日本全国の全ての士族は所属していた藩が廃止され、俸禄も失った。彼らは職を求めて、日本全国に散っていった。官軍のリーダーの地位にあったはずの長州藩士だって散り散りになった。全員が明治新政府の高級官僚に成れたわけではない。下関市長府は城下町長府として観光地になっているが、住民には元からの旧士族はほとんど居なく、皆散り散りになっている。

『藩閥政治と渡り合って賊軍の汚名をそそいだ平民宰相』のイメージは、戊辰戦争以来虐げられてきたと思い込んで僻んだ東北の人々が作り上げたものである。


参考

① <原敬>「平民宰相」誕生100年(上)原点/東北蔑視に強い反感

河北新報(2018.9.28、参考)


今からちょうど100年前の1918年9月29日、爵位を持たない初の「平民宰相」が誕生した。日本の本格的な政党政治は、ここに始まる。盛岡市出身の第19代内閣総理大臣原敬(たかし)(1856~1921年)。その足跡を訪ねた。(盛岡総局・北村早智里)

17年9月8日の盛岡市の報恩寺。戊辰戦争で死亡した盛岡藩士らの50回忌に、立憲政友会総裁で、1年後に首相となる原の姿があった。

「戊辰戦役は政見の異同(考え方の違い)のみ。当時勝てば官軍、負くれば賊との俗謡(言い習わし)あり。其(その)真相を語るものなり」

原は旧藩士を代表して祭文を朗読。記録に残る限り、12歳で経験した戊辰戦争について原が心情を口外したのは生涯でこの一度きりだった。

原は幼名を健次郎という。1856年2月9日、盛岡藩士の家に生まれた。盛岡市本宮(旧本宮村)には今も生家が残る。

戊辰戦争に敗れた盛岡藩は領地の召し上げ、70万両の制裁金といった新政府による重い処罰に疲弊していく。家老格だった原家は制裁金を用立てなければならない藩に備蓄米や骨董(こっとう)を献納。家屋の5分の4も売却して没落に至った。

「よしこの家運挽回してみせる」。窮地に奮い立つ年若い原を、弟の誠は後にこう回想している。

その言葉通りに19歳で上京。司法省法学校などで法学や歴史学を修め、郵便報知新聞の記者を経て外務省に入省。卓抜した交渉術から伊藤博文、陸奥宗光ら新政府の大立者に引き立てられ、政界に転じた。

親交のあった新聞記者前田蓮山は著書「原敬伝」に「南部藩(盛岡藩)は亡(ほろ)びた。然るに天は、一人の復讐(ふくしゅう)者を残した」と記し、原を政治に駆り立てたのは薩長への恨みであったと断じた。

その根拠が原の俳号「一山(いっさん)」だったと前田は論じる。東北をあざ笑う「白河以北一山百文」から採った俳号に原の反骨がみて取れるという。

ただ、政治家原の深奥に薩長閥への恨みがあったことをうかがわせる史料は、いまだ見つかっていない。生前の原が長く残すよう指示した「原敬日記」(全83冊)にも。

原敬記念館(盛岡市)の田崎農巳(あつみ)主任学芸員は「原が戊辰戦争の『復讐者』だったとは言い切れない。むしろ東北蔑視への反感の方が強かった」と推測する。

「各種史料からせり出す原敬像は、歴史を公平中立に捉えようとする冷静な政治家だ。『藩閥政治と渡り合って賊軍の汚名をそそいだ平民宰相』のイメージは、戊辰戦争以来虐げられてきた東北の人々の思いが作り上げたのかもしれない」

[戊辰戦争]「鳥羽・伏見の戦い」に始まる新政府軍と旧幕府軍の内戦。薩摩、長州両藩を中心とする新政府軍は、仙台藩と奥羽諸藩に会津、庄内両藩の追討を命令。これに反発した陸奥、出羽、北越の諸藩は「奥羽越列藩同盟」を結成して抵抗するも敗れた。


② 政治家としての原敬(wikiより)

明治33年(1900年)に伊藤博文立憲政友会を組織すると、原は伊藤と井上馨の勧めでこれに入党し、幹事長となった。同年12月、汚職事件で逓信大臣を辞職した星亨に代わって伊藤内閣の逓信大臣として初入閣する。原は政友会の結党前と直後の2度、貴族院議員になろうとして井上に推薦を要請している。一般には原は生涯爵位などを辞退し続け、その身を最期まで衆議院に置いてきたとされている。また、後年には貴族院議員を指して「錦を着た乞食」とまで酷評している。その原が貴族院議員を目指したのは、無官でいることからくる党内の影響力低下を懸念してのことといわれる。結局、星亨の後任となって入閣したため、貴族院入り問題は立ち消えになった。また、爵位授与に関しても実はこの時期に何度か働きかけを行っていた事実も明らかになっている(原自身が「平民政治家」を意識して行動するようになり、爵位辞退を一貫して表明するようになるのは、原が政友会幹部として自信を深めていった明治末期以後である)。


③ 1901(明治34)12月10日、帝国議会を終えた明治天皇の車列に男が飛び出した…

西日本新聞(2018.10.1、参考)

1901(明治34)年12月10日、帝国議会を終えた明治天皇の車列に男が飛び出した。羽織はかまの正装。手には「謹奏」と表書きした包み紙があった

▼男の名は田中正造。足尾銅山(栃木県)の鉱毒の窮状を訴える、厳刑も覚悟の直訴である。政府は「正気を欠いていた」と不敬の罪を問わないことで田中の行動を闇に葬ろうとした

▼しかし惨状が次第に伝わると世間の批判は厳しさを増す。後に首相となる原敬は世論緩和のため、銅山を経営する古河家に社会貢献の事業を勧めた。応じた古河側は文部省(当時)の注文通りに建物を建築。丸ごと国に献納した。そうして開学したのが九州帝国大学、後の九州大である

▼創立の地、箱崎キャンパス(福岡市東区)からの移転が9月末で完了した。107年の歴史を閉じ、実質今日から伊都地区(同西区、糸島市)で新たな歩みを刻む

▼1925(大正14)年から箱崎の正門前に店舗を構える文具店「久松屋」。留学生には生活費の支援をするなど面倒見のいい店のご家族。皆に慕われ、移転を前になじみの大学職員があいさつに訪れるほどだった

▼本紙都市圏版で紹介した日、取材した記者に久松屋さんから連絡があった。青春を呼び起こした卒業生もいたのだろう。「新聞見たよ、って朝から2時間も電話が鳴りっ放しで。記者さんもまた遊びに寄ってよ」。優しい人たちの土地であればなお、別れが切ない。 

=2018/10/01付 西日本新聞朝刊=


④ 賊軍地域の人々は僻み根性を捨てた方が良い(参考)


⑤ 賊軍出身者でも優秀な人材は明治新政府に登用されていた