参考
① 幻の恭仁京、見え始めた全体像 京都、開発で発見相次ぐ
奈良時代に足かけ5年だけ現在の京都府木津川市にあった都「恭仁京」への注目が再び高まっている。当初は山城国分寺跡として国史跡に指定されていた地で、1970年代から始まった発掘調査で恭仁京大極殿跡が確認されて「幻の都」が注目されたが、多くの謎が残されたままだった。しかし、ここ数年の周辺宅地や道路開発に伴う発掘調査で、道路跡などの発見が相次ぎ、全体像をつかむ手がかりが出てきた。確認できた都の遺構は限られているが、当時の雰囲気を感じることができる場所は多い。
2011年1月、恭仁京跡の発掘調査を続ける京都府埋蔵文化財調査研究センターが、三角縁神獣鏡で知られる椿井大塚山古墳近くの上狛北遺跡(同市山城町)で恭仁京の一部とみられる南北に走る道路跡が確認されたと発表した。
中心部の恭仁宮の外で初めて見つかった恭仁京の「痕跡」だった。
今年1月には、岡田国神社近くの岡田国遺跡(木津川市木津)で、ほぼ東西南北に直交する道路跡が見つかった。都の碁盤の目が想定され、「恭仁京の跡とみて間違いないのでは」と上原真人・京都大名誉教授は太鼓判を押した。
恭仁京は長らく「幻の都」と呼ばれ、宮域の発掘調査で遺構が次々と確認されてからも、全体像は分からないままだった。京域の痕跡がついに見つかり、研究は新たな局面を迎えた。
恭仁京について記す「続日本紀」には具体的な場所を示す記述が少ない。都の範囲について京都大教授だった故・足利健亮氏(歴史地理学)は、地形や地名、道路から恭仁京と恭仁宮の範囲を想定し、地図にまとめた。「足利説」と呼ばれるこの地図は、現在も発掘調査の指針になっている。
戦前は聖武天皇に関わる「聖蹟」として、保存されたままだった恭仁宮の発掘調査が始まったのは1973年から。伝承通りに大極殿跡が見つかり、平城京の大極殿を移築して建築したことなど文献上の出来事が次々と確認され、1988年からの発掘調査で恭仁宮の四至(範囲)が確定したが、あるはずの京域の痕跡がなかなか見つからなかった。
姿を見せ始めた京域に、木津川市も今後の調査に期待を寄せる。岡田国遺跡の近くでは2008年の発掘調査でほぼ同時代の神雄寺跡も見つかり、木簡や楽器など珍しい出土物が注目された。国の中枢があった当時の状況を知る手がかりは増えている。
■恭仁京
聖武天皇が740年に平城京から遷都し、744年に難波宮に遷都するまで現在の木津川市で造営した都。「続日本紀」には「賀世山(鹿背山)西道より東を左京、西を右京とする」とある。都の中枢だった恭仁宮跡(同市加茂町)では大極殿など主要な建物遺構が出土し、「宮域」の外に、碁盤の目状に区画されて住居や市などが並ぶ「京域」もあったと推測されているが、謎に包まれている。
② 万葉の息吹感じる、恭仁京しのぶ史跡 京都
京都府木津川市には恭仁京のあった奈良時代の史跡も多く、一部では公園整備が進められている。地元でボランティアガイドを務める「ふるさと案内かも」の西村正子会長(67)に、万葉の風を感じることができるスポットを紹介してもらった。
■万葉歌碑(同市加茂町岡崎)
奈良時代の歌人で政治家の大伴家持が詠んだ歌「今造る 久邇(くに)の都は 山川の さやけき見れば うべ知らすらし」の石碑が、恭仁大橋のそばにある。「自然の美しさを織り交ぜて恭仁京をたたえた歌」と西村さん。百人一首の「みかの原」も、恭仁京が広がっていた一帯のことだ。
■大極殿跡・山城国分寺跡(同市加茂町例幣)
天皇が政務を執り、大礼を行った恭仁宮の最重要建物跡で、現在は史跡公園になっている。近くに「くにのみや学習館」(市文化財整理保管センター分室)があり、発掘で見つかった瓦や、恭仁宮の歴史をまとめた映像を見ることができる。西村さんは「最近の発掘で別の建物跡も見つかっているので、合わせて説明している」という。
■海住山寺(かいじゅうせんじ)(同市加茂町例幣)
聖武天皇の勅願によって735年に「観音寺」として創建されたと伝わる。火災で一時衰退したが、鎌倉時代に笠置寺(笠置町)にいた解脱上人(貞慶)が移り住んで復興し、現在の寺号となった。国宝の五重塔がある。「少し急な上り坂ですが恭仁宮跡から近く、お勧めです」と西村さん。
このほかにも見どころは多い。飛鳥時代創建で府内最古の寺院だったとされる高麗寺跡(同市山城町上狛)は、市が基壇を整備するなど公園化を進めている。神雄寺跡(同市城山台)では万葉集の歌が書かれた木簡や墨書土器、仏教の儀式で使われたとされる楽器が見つかっている。府立山城郷土資料館(同市山城町上狛)では恭仁宮跡の出土品を見ることができる。