藤田伝三郎と児島湾干拓 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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明治の政商と言われる山口県出身の藤田伝三郎が祀られた神社があった。

彼は岡山県の児島湾の大規模干拓事業に貢献し、事業の成功を願って藤田神社が創建さるたとか!

藤田神社

岡山市南区藤田509−3 藤田神社

明治後期の児島湾

平成30年現在


参考

① 藤田神社に伝三郎の等身大パネル 岡山・児島湾干拓の歴史に興味を

山陽新聞(2018.12.11、参考)

藤田神社に登場した藤田伝三郎の等身大パネル

児島湾干拓事業に尽力した関西の実業家・藤田伝三郎(1841~1912年)の等身大パネルが、ゆかりの藤田神社(岡山市南区藤田)に登場し、参拝者らの注目を集めている。 

パネルはセラミック製で、高さ約160センチ、幅約60センチ。伝三郎が60代後半のときに撮影し、大阪市の藤田美術館が所蔵していた写真をもとにした。同美術館と親交のある今井伸宮司(50)が写真データを受け取り、地元業者の協力を得て完成させた。 

今井宮司は「地元住民の間でも伝三郎の存在感が薄れつつある。パネルが地域の歴史に興味を持つきっかけになれば」と話している。 

藤田神社は、干拓事業の成就を願って1915年に建てられた。


② 藤田伝三郎による大事業「児島湾干拓」

農林水産省(参考)


・地域の概要

岡山平野の南部一帯は「吉備の穴海」と呼ばれた美しい海でした。ここには上流から運ばれた土や砂が堆積して干潟が発達し、江戸時代までに干拓によって新田が開発されてきました。

また明治時代になると大阪の豪商「藤田伝三郎」によって大規模な干拓が行われ、終戦後には国営事業に引き継がれ、合計2万ヘクタールもの海が干拓によって美田に生まれ変わりました。

・地域の保全のための取り組み

児島湖環境保全条例により、児島湖の水質浄化対策などが行われています。

・交通アクセス(児島湾干拓資料館)

1. 岡山駅から玉野渋川行特急線・上山坂線・小串鉾立線で約30分バス停「甲浦郵便局前」下車、徒歩5分 
2. 岡山ICから国道53号線、国道30号線、県道40号岡山港線を通って郡方面へ約45分  

・関連ホームページ


・お問合せ先

農村振興局整備部設計課
ダイヤルイン:03-3595-6338
FAX:03-5511-8251


③ 日立製作所の創業者の久原房之助やニッスイの創業者の田村市郎の父親の兄弟が藤田伝三郎(参考)


④ 藤田美術館と藤田伝三郎