薩摩藩の明治維新は武士の為の武士による武士の革命 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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薩摩藩の明治維新は何の為にあったのであろうか?理念は?倒幕した後、西欧列強に対峙するのに、どのような政治体制を作ろうとしたのであろうか?

結果から遡って観察すると、薩摩藩がリーダーシップをとって島津久光を将軍に据えるのか?大統領にするのか?そうで無くとも、武士達が政治家や公務員や軍隊の兵士になることは当然と考えていたようだ!民主主義社会を作るとしても、武士階級以上は例外で、世襲の政治家や公務員になるつもりでいたようだ!薩摩藩の武士達にとって農民以下の百姓は搾取の対象であり、眼中に無かったのであった。

これに対して、長州藩は初めから武士達をリストラするつもりでおり、倒幕思想とは幕府を無くすだけではなく武士身分を無くす思想であった。長州藩の尊皇思想とは天皇の下に四民平等の世界を作ることであり、初めから草莽崛起による百姓の軍隊、すなわち奇兵隊を作った。もちろん、長州藩内にも東国の武士に由来する保守派(俗論派)がいたが、四民平等を目指す革新派(正義派、尊皇派)が内訌戦を勝利したのであった。明治になって武士達の特権を剥奪した時も、萩に残留した武士達の反乱があったが容易に鎮圧された。

明治維新の後、明治新政府を立ち上げて天皇の下で新国家を作ろうとした時、当然のことながら十分な予算を組めなかった。旧体制にあぐらをかいた武士達や大地主達が社会に寄生していたので、当然の成り行きとして彼らの特権を剥奪することになったのであった。

長州藩は明治維新と言う革命の過程で自らの体制を革新して来たが、薩摩藩士達は明治新政府の中でも、また鹿児島地域の中でも全く旧体制を維持したままであった。すなわち、薩摩藩士たちが明治新政府に反抗して西南戦争を引き起こすことは、当然の帰結であった。


参考

① 薩摩藩が「幕末最強組織」になった特異な理由

藩内には「徳川とは対等」という意識があった

東洋経済(2018.12.10、参考)

常井 宏平 : 編集・ライター

鹿児島のシンボルである桜島(写真:Hiroko / PIXTA)

西郷隆盛や大久保利通が属する薩摩藩は幕府を倒して明治維新を牽引したが、その原動力となったのが、他の藩にはない独自の人材育成・軍事システムだった。

謎1 なぜ大量の兵士を維持できたのか

第1の謎を解き明かすためには、まずは薩摩藩ならではの特異性をみる必要がある。薩摩藩は、鎌倉時代から続く名門・島津家が治めてきた。始祖の島津忠久は鎌倉幕府・初代将軍源頼朝の庶子だったという伝承もあり、江戸300藩の中でも飛び抜けた名門だった。

島津家は関ヶ原合戦後に徳川家に仕えた外様大名だが、徳川家に屈しなかったという“誇り”があった。関ヶ原の戦いでは敵側の西軍に属したが、大胆な敵中突破で武名を高めた。徳川家康は島津征伐を検討したが断念し、最終的には西軍でありながら取り潰されず、それどころか所領が安堵されるという特別待遇を受けた。こうした経緯もあってか、薩摩武士には「徳川とはあくまで対等の関係」という考えがあった。

島津家は引き続き九州南部を治めることになったが、それゆえに戦国以来の体制や習慣が根強く残った。江戸時代の日本には士農工商という身分制度があり、兵農分離で武士層と農民層が明確に分かれていた。武士層は人口全体の7〜10%で、多くが城下町に住んでいた。

ところが、薩摩藩の武士階級は、人口比にして何と30%近く。他藩に比べるとはるかに高い数値である。これは藩内に「徳川とは対等」という独立意識があり、「何が何でも領土を守る」という意識が働いていたからだと考えられる。いざというときに対処できるよう、常に大兵力の維持に努めていたのだ。

家禄が無くても武士特権

とはいえ、火山灰地に覆われていた薩摩藩領の生産高は低く、表高(所領の表向きの石高)は77万石だったが、実質石高は30万〜35万石だった。しかも参勤交代では藩主が薩摩と江戸を往復しなければならなかったので、通常のやり方で大兵力を養うのは難しかった。そこで、領内の村々に自給自足の「外城士(とじょうし)」と呼ばれる郷士身分を大量に配置した。

彼らは家禄がなくても年貢免除や苗字帯刀などの武士特権を与えられたので、藩主に対する忠誠心も厚かった。彼らは武士であることを誇りに思い、武士としての自覚から日々の鍛錬も欠かさなかった。剣術修行にも熱心で、平和が続いたことで軟弱化した他藩の武士とは対照的だった。

薩摩藩は年貢免除や苗字帯刀など、武士にとってはこれ以上ないインセンティブを与えた。その結果、普段は農作業をしている下級武士たちもモチベーションを保ち続けられたのである。

(学びのポイント)年貢免除や苗字帯刀などの武士特権がいわばインセンティブとなり、モチベーションの高い戦力を大量に維持できた

(教訓)金銭以外のインセンティブが組織の結束を強くする

謎2 なぜ有能な人材が輩出されたのか

幕末に活躍した薩摩藩士は西郷隆盛や大久保利通だけではない。家老の小松帯刀、勝海舟から「薩摩では大久保利通に次ぐ傑物」と評された村田新八、「人斬り半次郎」と呼ばれた桐野利秋など、さまざまな人物が活躍している。また、第2代内閣総理大臣の黒田清隆、日露戦争でバルチック艦隊を破った東郷平八郎、実業界で活躍した五代友厚など、明治期にも多くの薩摩人が活躍した。

薩摩出身のリーダーは、大事な場面で常に適切な判断を下してきた。なかには藩校でエリート教育を受けた者もいたが、藩校で学ばなかった下級藩士出身のリーダーも多い。現に西郷や大久保などは下級藩士の出だが、リーダーシップを発揮するための判断力や実行力、決断力はずば抜けていた。

こうした人材を輩出することができた背景には、「郷中(ごじゅう)教育」という薩摩藩独自の教育システムがある。

鹿児島城下における家臣の居住地域は家格によって区分され、それぞれの町で「郷中」と呼ばれる少年たちのグループがつくられた。「稚児(ちご)」と呼ばれる6~15歳ぐらいまでの少年たちが集まり、「二才(にせ)」という15〜24歳の年長武士が教える。郷中教育には“教師”が存在せず、先輩が後輩を教育しているのだ。

独自の教育システムで絆深まる

どんなことを教えるか、誰から学ぶかは子供たちの自由で、決まった学び場もない。子供たちは早朝に好きな先生の家を訪ね、儒学や書道などを学んでいる。さらに川遊びや相撲、武芸などにも励み、身体を鍛える。学んだ後は子供たちだけで集まり、車座(くるまざ)になって、その日学んだことをひとりずつ口頭で発表する。これによって知識が共有され、話す本人も口頭で伝えることで復習になる。

藩校ではテキスト重視の教育が行われるが、郷中教育では会話が重視される。ときには熱い議論になることもあるが、こうした口伝えの教育が実践的な力につながり、テキストだけでは身につかない決断力や実行力、判断力が身につくのだ。

郷中で一緒に過ごす時間が長いので、同じ郷中で育った者の絆は深くなっていく。その一方で、年長者に従う意識も強くなる。その結果、目上の者の命令には異議を唱えることなく黙って従うという独特の気風も生まれた。

(学びのポイント)薩摩藩独自の教育制度「郷中」で育まれた実践的な力が、薩摩からの有能な人材の輩出につながった

(教訓)教える側と教わる側という固定的な関係ではなく、むしろ仲間同士で学び合うことで組織が成長する

謎3 なぜ産業近代化にいち早く成功したのか

8代藩主の島津重豪は藩財政を悪化させた張本人だが、薩摩藩の近代化の礎を築いた人物でもあった。藩校の造士館を設立して教育の普及に努めたほか、明時館(めいじかん)という天文学の研究施設や漢方を学ぶ医学院も建てた。書物の編纂にも取り組み、薬草を研究した『質問本草』や農学書の『成形図説』、中国語を研究した『南山俗語考』などを刊行した。また、重豪自身も「蘭癖(らんぺき)」の異名を持つほど蘭学に興味があり、自らオランダ語を習得したり、来日したシーボルトと会見して西洋事情を聞いたりした。

こうした重豪の“洋学かぶれ”は、曾孫で11代藩主の島津斉彬(なりあきら)に受け継がれた。列強諸国の脅威を敏感に受けとめていた斉彬は外国の先端技術を導入し、軍事と産業の近代化にいち早く取り組んだ。

鹿児島郊外にはアジア初の近代的洋式工場群を建設し、大砲の製造や洋式帆船の建造、武器弾薬や食品の製造、紡績事業やガス灯の実験などを行った。これらの事業は工場群の名称にちなんで「集成館事業」と呼ばれ、のちの明治維新期に活躍する人材も育てた。

薩摩の現実的な行動原理

斉彬が先進的な事業を起こすことができたのは、当時の薩摩藩が海外情勢をいち早く入手できる環境にあったからだ。

江戸時代は完全に国交を閉ざしていたわけではなく、4つの窓口(対馬(つしま)・蝦夷(えぞ)・長崎・琉球)を通して諸外国と交流していた。なかでも琉球は薩摩藩の管轄下にあり、琉球を通して海外の情勢を知ることができた。薩摩藩も高い情報収集力を誇り、それが維新の礎にもなったのである。

理想に直進した長州藩、現実的な行動原理の薩摩藩

また、薩摩隼人といえば、「チェスト!」の掛け声で勇猛果敢に挑むイメージがあるが、一方で、現実的で冷静な面もあった。長州藩は理想に向かって直進する傾向があったが、薩摩の場合はギリギリまで幕府とは表立っては対立せず、しっかりと力を蓄えた状態で戊辰(ぼしん)戦争に突入している。

薩摩藩士には尊王攘夷思想に傾倒する者も多かったが、藩首脳部はその暴発を抑え、幕府が推進する公武合体政策を支持した。そして、京都では会津藩と協力して長州藩の尊王攘夷派を追い出した。幕府と表立って敵対することなく、その内に入って影響力を強める画策をしたのだ。

理想に向かい直進する長州藩とは違って、むしろ薩摩藩には現実的な行動原理があったといえよう。着実に力をつけながら、薩長同盟の締結により、ついに幕府との力関係は逆転した。そして、倒幕へと動きだす。この冷静な行動が成功へとつながったのである。

(学びのポイント)尊王攘夷という無理な理想を追わず、現実の世界情勢を正しく認識。リアリズムに徹する対応をしたことが、近代化につながった

(教訓)理想だけを追う組織は危うい。地に足をつけたリアリストが社会を動かす


② 長州藩の尊王攘夷運動には、元々、四民平等の下地があった(参考)


③ 奥羽越列藩同盟に属し戊辰戦争を最後まで生き残った旧庄内藩が武士主導の世界を夢想し、西南戦争に敗れた薩摩藩士達と意気投合し、明治新政府を批判して横車を押した(参考)


④ 長州藩の明治維新には、浄土真宗(一向宗)の全国ネットワークの支持があった