官軍が錦の御旗を掲げたから官軍だ! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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庶民に恨まれていた旧幕府軍が例え錦の御旗を掲げても、賊軍は賊軍にしか過ぎない。

幕末の旧幕府は庶民に支持されていなかった!だから、旧幕府が自軍のために東国の農民を徴兵して兵士にしようとしたが、反発されて一揆が起きた。また、官軍が東方に進軍するとき、現在の浜松市の神職(遠州報国隊)が味方になって一緒に進軍し、上野の彰義隊と戦ってくれた。

錦の御旗を掲げた方が官軍になるのでは無い!庶民に支持された正統な軍隊が官軍として天皇の錦の御旗を作って掲げたから、官軍と誰もが認知したのである。例え賊軍が錦の御旗を持っても、賊軍は賊軍である。

錦の御旗を掲げた官軍を目にした旧幕府軍がたじろいだとすれば、旧幕府軍側にも後ろめたさがあって、自らを賊軍と見做してしまったことになる。


雑談1

明治維新を陰謀論として捉える得体の知れない本では、維新の資金源の出所についてユダヤとかロスチャイルドの名前が出てくるが、そうでは無い!

志士達の活動資金は農工商の庶民が出していたのである。兵器購入には豪商などの金が要るが、食料、寝所、飛脚などは庶民の無償提供だった。

また、庶民が大砲や弾薬の運搬、陣地の造成などの力仕事を担当していた。


雑談2

長州藩の奇兵隊の宿舎は無償提供されたお寺の本堂を利用していた。もちろん奇兵隊士の給料は長州藩持ちとなっているが、実際には、ほとんどが手弁当のボランティアであった。


雑談3

坂本龍馬の活動資金であるが、親元が金持ちだったが、例えば下関の大庄屋の伊藤久三などが有形無形の援助をしていた。坂本龍馬の妻のお龍の生活費や宿舎も伊藤久三が援助していたし、高杉晋作の妾のおうの生活費もやはりスポンサーがいた。


参考

① 西郷どんにも登場「錦の御旗」って結局どういう意味があるの?鳥羽伏見の戦いを決した切り札は偽物だった?

Japaaan(2018.10.31、参考)

鳥羽伏見の戦いで旧幕府側を賊軍にした「錦の御旗(にしきのみはた)」


旧幕府軍と新政府軍による戦いの戊辰戦争。その初戦となったのが1868(慶長4)年の鳥羽伏見の戦いですが、この戦いで新政府側が「錦の御旗」を掲げたことで旧幕府軍はその瞬間に賊軍となってしまいました。

錦の御旗、略して錦旗(きんき)とも呼ばれますが、これは何を示しているかというと、天皇に「朝敵を討て」と命を受けた軍である、という証なのです。つまり、錦の御旗を掲げた新政府軍は官軍。

戊辰戦争(1868)の際、官軍が用いた錦旗の精密な模写図

戦っていた兵たちはそれを見てたじろいてしまいました。それはそうです。錦の御旗には天皇家の印である菊の御紋が金色で描かれているのです。それを掲げた組織を攻撃するということは天皇を攻撃するということ。

これには徳川慶喜もショックを受け、戦意喪失。戦う旧幕府軍を置いて江戸へ逃げ帰ります。慶喜自身、水戸徳川の出身であり、天皇への忠誠心はとても強かったと言われています。過去には、御所に向かって砲撃したとして長州を討伐しています。今度は自分が討伐される側になったのです。

もちろん勝敗を決めたのは錦の御旗だけの力ではありませんが、これがあったことにより旧幕府軍がひるみ弱体化したのは事実でしょう。

後鳥羽上皇が朝敵討伐のために与えた旗

この錦の御旗、いったい何なのか。天皇が朝敵討伐のために対象に与えるものとして古くからあった慣習のようですが、歴史上では後鳥羽上皇が承久の乱の際に与えた御旗が最初だと言われています。

ひとつの錦の御旗がずっと受け継がれていたわけではなく、ただ伝説のように語り継がれていたもののようです。デザインにはとくに決まりがなく、赤地の錦に金銀で日月を刺しゅうしたり描いたりするのがよくあるスタイルでした。

日月の二種類で一組の旗です。

岩倉具視が指揮して大久保利通に作らせた偽物?

大河ドラマ「西郷どん」でも岩倉具視が大久保利通に命じて作らせた様子が描かれていましたね。

鳥羽伏見の戦いで使われた錦の御旗はもともと用意されていたもので、1月4日に掲げられました。ドラマで描かれていたように、岩倉具視が大久保や長州の品川弥二郎に「ちょっと錦の御旗作っといてよ」と言って作らせたのだそう。

戦場では一カ所ではなく数カ所で掲げられたので、御旗はかなり量産されていたことになります。

上記のように天皇ではなく岩倉具視が作らせた、ということから「偽物ではないか」という疑問は古くからあったようです。

しかし、きちんと朝廷の許可を取ってから掲げているので、あれは本物。やったもん勝ち、という感じでセコい策のように思えますが、「勝てば官軍」なのです。



② 戊辰戦争と世直し一揆(wikiより)

慶応4年(明治元年)の戊辰戦争の勃発によって各地で世直し一揆が再燃した。ただし、鳥羽・伏見の戦い以後西日本では大きな戦いが発生しなかったこともあり、大規模な一揆の発生はなかった。一方、戦場となった東日本の各地では大規模な一揆が発生した。

鳥羽・伏見の戦いの報が江戸に伝わった直後の1月15日、関東取締出役渋谷鷲郎が関東一帯の村々から公私領を問わずに農民を徴兵する決定を下した。このため、上野・下野・武蔵の3国で大規模な一揆が発生した。2月12日に武蔵・上野の農民が渋谷がいる岩鼻陣屋に向かって進撃した。これに驚いた渋谷は15日に命令を撤回した。ところが、その際に一部の村役人が徴兵の選定に際して不正があったとして下旬より三国の村々で村役人の追放などを訴える大規模な一揆へと発展した。特に上野では2月22日に多胡郡で起きた一揆は周辺を巻き込んで拡大し、吉井藩七日市藩小幡藩は次々と一揆軍に「降伏」した。3月10日には岩鼻陣屋も放棄され、羽生陣屋が新政府軍に落とされると、上野・北武蔵の一揆は最高潮に達し、上野では一揆の制圧下に置かれなかったのは高崎前橋伊勢崎の3藩のみであったとされている。3月末に安塚村(下都賀郡壬生町)、日光道中石橋宿で発生したといわれ、瞬く間に下野中央部の全域に広まった。積もり積もった不満が一気に噴出したものである。 その頃、新政府の東山道軍が北関東に進出したが、3月11日諸藩に対して共同で一揆の取締を命じるとともに新政府軍もこれを支援する方針を立てた。この方針に従って鎮圧に当たった結果、3月末から4月にかけて一揆は沈静化に向かった。一揆鎮圧に新政府軍の支援を受けた北関東の諸藩は藩論を恭順にまとめることになる。

5月に入ると、佐幕派の桑名藩の飛領がある越後国魚沼郡で一揆が発生した。同郡に入った新政府軍が戦乱を理由とした年貢の半減に応じた結果、間もなく鎮圧された。また、8月には村松藩でも村役人の追放を訴える一揆が起きて藩と新政府軍に鎮圧されている。この地域の一揆の主な舞台は北越戦争及び会津戦争の主戦場でもあった長岡藩会津藩であった。

長岡藩では5月19日に長岡城が落城すると、米の払下や藩による人夫徴用に反対する一揆が発生した。5月20日から吉田・巻一帯で発生した一揆は領内全域に広がり一時は7,000人規模にまで達するものとなった。これに対して長岡藩では、新政府軍と戦っていた部隊の一部を引き抜いて鎮圧にあたった結果、6月26日にようやく鎮圧した。これによって長岡藩の兵力が減少したのみならず、人夫動員も困難となり河井継之助の長岡城奪還計画は大幅に遅れて、結果的に新政府軍に有利に働くことになる。河井継之助の命運を尽かせたのは実は新政府軍の兵器ではなく、領民の一揆による抵抗による作戦好機の逸失であったと言える。

会津藩でも9月22日に若松城が落ちると、領内(特に戦場にならなかった地域を中心)に会津世直し一揆が発生、領内のほぼ全域に拡大した。領民は会津藩主松平容保京都守護職就任以来の重税に対する不満を一気に爆発させ、藩の支配組織を完全に解体に追い込んだのである。


③ 浜松の遠州報国隊(参考)


遠州報国隊は、慶応四年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いで勝利し、徳川慶喜追討のため江戸に向かった官軍に、同行・協力するため神職を中心に結成された有志隊です。官軍とともに江戸へ向かった報国隊(出征部)は、江戸城周辺の警衛や上野での彰義隊との戦いにも参加しました。また、隊の解散後は、東京に残留・移住する者と、帰郷する者とに分かれ、それぞれ違う道を進んでいきました。

注: この東京に残留した神職達が東京招魂社(後の靖国神社)を守ることになる。


④ 戊辰戦争の真実(参考)


⑤ 会津の庶民からすれば、賊軍は矢張り賊軍(参考)


⑥ 西本願寺は倒幕派であり、東日本も含め全国の門徒に倒幕の司令を既に出していた(参考)


⑦ 庶民の支持がある方が官軍、本願寺の僧達が本願寺隊として官軍に参加した