戊辰戦争の真実 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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英国から派遣されたウィリス医師が明治維新全般と戊辰戦争に関する報告書などを作成していた。

興味を引くのは、当時の日本の政治情勢一般への感想と会津戦争の見聞記である。英国人医師が英国の上司への報告であり、官軍(ミカド軍)と賊軍のどちらにも偏ることの無い公平な記録と考えられる。

ここで、ウィリス医師は『私が通り過ぎたそれぞれの場所で観察したかぎり、現在の統治機関は人民に容認されているようにみえた。また、私の調査の及ぶかぎり、概して、人民は、最近の政変が将来にとってより良い状態を招くものと考えている』と、官軍の評価が高い。

この中の会津戦争について、従来、広くは知られていない次の様な記述があった:

『両軍の戦闘が熾烈を極めたにもかかわらず、ミカドの軍隊は、捕虜をかなり寛大に取扱ったようだ。これに対して、会津藩の軍隊は、ミカドの軍隊の兵士たちばかりか、捕えた人夫たちまでも殺したといわれる。この話の確証として、4日間も雪の中に倒れていて、両足の機能を失った一人の人夫に会ったことを私はここに記しておきたい。その人夫は、もし会津藩の兵士に捕まっていたならば、酷い死に目に遭わされていただろう、と私に語った。そのほか、私は、会津若松で、世にも悲惨な光景を見た。たくさんの死体が堀から引き上げられた。彼らは、両手を背中にうしろ手に縛られ、腹を深く切り裂かれていた。私は会津藩の軍隊の兵士たちの、残酷行為の物語をいろいろと耳にした。長岡では、彼らは、ミカドの軍隊の病院にいる負傷者や医師たちを皆殺しにした、と聞いた。会津藩の軍隊の兵士たちは、退却して行く途中で女たちを強姦した。家々に盗みに入り、反抗する者は、みな、殺害した。』

従来、会津若松市では『官軍が会津の人々を殺めても、遺体を丁重に葬るられることを禁じて野晒しにした』と言う話が流布してきたが、真実は逆であった可能性が大きい(参考)。


参考

① ウィリス医師が観察した当時の日本の政治情勢

ウィリス医師の東北戦争従軍記録(1868、参考)


私が通り過ぎたそれぞれの場所で観察したかぎり、現在の統治機関は人民に容認されているようにみえた。また、私の調査の及ぶかぎり、概して、人民は、最近の政変が将来にとってより良い状態を招くものと考えている。

旧体制の各藩の領民であった農民らは、とりわけ、新体制を歓迎している。タイクン(幕府の将軍)統治下の各藩藩主らは、相当に圧制的な領主であったのだろうか。

土地に課せられる年貢の額の画一的な施行は、今後も続くものと思われる。私が出合ったり、私の通訳が話を交えたりした農民たちからは、旧体制に対する同情心は片鱗も伺うことができなかった。

大領主(大藩)に隷属する農民らは、最近の政変に無関心であるようにみえる。彼らにとっては関係がないことだと言っていた。

しかし、小領主(小藩)に隷属する農民らは、すなわち、先に述べたように、始末におえぬ暴君であるとの評判を自ら招いている小領主(小藩)に隷属する農民らは、まったく違っている。

新政府の権威は、いたるところで容認されているようである。

各地の関所、本陣(旅館)は、私を、新政府の要請による公的な旅行者として受け入れてくれた。私が宿泊するか、昼食のために立ち寄ったところでは、どこでも、公式の服装をした村の役人たちが出迎えにきた。いたるところで受けたお辞儀には気がめいるほどであった。

現在、抗戦中の会津藩軍にたいする共感は全然ない。

私が耳にすることができたものといえば、皆、タイクンの幕府は廃止された。旧政治体制は、もはや復活することはできないということであった。

私が知りえた情報から判断すれば、いまや会津藩軍は、各地の無法な両刀差しの連中で補充されているとのことであった。

各地の旅館主や商人たちは、大名やその家臣らが、道中でふんだんに金銭を費やしていた往時の人の往来がなくなったことを残念がっている。

大名が、必ず江戸に住まわねばならなかった古くからの慣習は、過去のものとみなされ、もはや二度と甦りそうにもなかった。

生糸の生産地帯では、関連する各種の労働に支払われる金額が相当なものであるから、それがある程度、かつての人の往来が落としていったものの償いになる、と旅館主たちは言っている。

大名が、強制的に江戸に住居を置かされた昔のしきたりが行なわれていたころ、彼らは自分の領地からの往復にずいぶん中山道を通ったらしく、旅館主たちにはその当時が忘れがたくて、あの頃はよかったと言うのである。

しかし、旧幕府に同情する言葉は、一言も耳にすることができなかった。

私は心ゆくまで旅の楽しみを味わった。従者たちは、皆、私が要求する情報を集めてくれた。旧政治体制の疑い深い役人らのように隠しだてをしたり、些細なことにつまらぬ反対をすることなどはなかった。

これまでのところ、戦闘があったり、村が焼かれたりしたというような形跡には出合わず、一般市民を動揺させるものはなにも目にとまらない。一般市民は彼らの日常の生業にいそしんでいるように見えた。

日本には、真の意味の中央統治機関が本当に必要だ、と思うことがあった。江戸に近いところでも重要な公共土木工事は行なわれていない。

日本の道路は、私がこれまで見たもののうちで最悪である。大雨があると膝まで泥に浸かってしまう。どんなに努力をしてみたところで、一日に20マイル(32キロメートル)進むこともできぬ地域がいくらもあるのだ。

河川にかかる大切な橋もなく、あらゆる交通は、まったく未開時代特有の渡し舟に依存している。

沿道のすべての町には、日本の最近の政変を伝え、外国人の処遇改善の対策などを講じた政府の告示板が立てられていた。

私は高崎に掲示されていたものの写しをとったが、きっと横浜に張られていたのと同じものではないかと思う。

会津藩主(松平容保)と彼の部下たちは包囲され、最終的には、ミカド軍が勝利することは疑いない。しかし、戦闘が年内に終結するかどうかは疑わしい。

戦闘は来年には終わることは確実であろう。

現時点では、仙台藩が、会津藩にどこまで加担しているかは疑問であるとのことだ。すでに、越後では、すべての藩がミカド軍の側になった。

私が聞いたところでは、だれひとり、会津藩でさえも、旧幕府の全面的な復活を予想してはいない。しかし、会津藩主と彼の部下は、最後までミカド軍と戦うだろうとの噂である。

噂を信ずれば、ミカド軍は、確実に前進しているとのこと、会津藩は、いずれは、征服されてしまうとのことである。

もっとも、だれから聞いても、ミカド軍は、敵兵を繊滅させながら征服していくのだが。

私が通過した牟礼の村から5マイルの犬山というところでは、旧暦4月に戦闘があり、6名ほどが死亡した。ミカド軍の真田信濃守の部下が勝利を得た。

反乱者らは会津若松へ逃げていった。

新潟は焼かれることなく、ミカド軍の手中にあり、大部隊で維持されているそうである。

道を行きながら、私は3か所で武装した無頼漢ども処刑の掲示を見た。武蔵の国では武装した無頼漢どもが毎日のように出没し、農民から金銭を不法に強奪することが習慣のようになっていた。

そして、これを無くすために、法律が、珍しく、機敏に厳然と執行されていた。

しかしながら、日本の警察組織はきわめて不完全であると断言せざるをえない。

聞くところによれば、両刀差しの無頼漢が暴行を犯しながら、刑罰を免れることもあるとのこと。


② 医師ウィリスの会津戦争見聞記

ウィリス医師の報告書(1869.1.23、参考)

私は自ら600人の負傷者の治療にあたり、また約1,000人の他の負傷者の手当について日本人医師に治療方法を指示した。

これらの負傷者の内訳は、ミカドの軍隊の者が900人、会津藩兵が700人であった。

小指の除去手術から大腿骨関節の切断手術まで、大小さまざまの手術を38回行なった。この手術した負傷者のうち、ほぼ半数が回復した。また私は、23個の銃弾を負傷者の体内から摘出し、200人の患者から打ち砕かれた骨を除去した。負傷は、大体、弾丸を受けたものであった。

槍で突かれたり、刀で斬られたりした創傷も、二、三あったが、銃剣による負傷の事例は一つもなかった。

時間や、その他の事情が許すかぎり、私は日本人の医師たちに、負傷者の治療方法を教えてきた。

ミカドの軍隊の負傷者は、私が訪れた各地の駐屯地の寺院に収容されていた。日本人の日常の必需品はみな支給されていた。現地の医師や看護人の不完全な医学的訓練や知識不足にもかかわらず、負傷者たちは、期待されうるかぎりの世話を受けているようにみえた。

会津藩の負傷者は、会津若松城周辺の七つの村に収容されていた。私が初めて訪れた時の彼らの状態は、この上もなく悲惨なものであった。米の配給以外は、他になにも与えられていなかった。薬も着物もまったくなかったのである。

私は会津若松の当局者に、この状態を説明して、必要な糧食を確保することができた。同時に、負傷者の必需品が、将来にわたって規則正しく支給されるとの保証を得た。

会津藩の負傷者は、性別や年齢の長幼を問わず、さまざまな階級の人たちであった。雪が深く積もっているというのに、彼らは、ボロをまとい、火の気のないあばらやに、詰め込まれていた。あまりにも惨めな状態を少しでも改善してほしいと私は所持金の全部140ドルを義援金として寄付した。これ以上、援助できるオカネがなかったことは、残念でならなかった。

私はきびしい冬の寒気が定着する前に帰国させるため、ミカド軍の負傷者一覧表を作成した。来年の春中には、すべての負傷者は、それぞれの国に帰ることになろう。彼らは冬を越すために、各駐屯地から柏崎に集められる予定である。

現地の医師たちが持っている医学知識に関しては、昨年のはじめに、薩摩藩の負傷者を往診して京都から帰着後、私の提出した報告書につけ加える以上のものはなにもない。

江戸から高田に旅行の途中、日本政府の要請によって通行している時でさえも、外国人の日本旅行に伴う困難を証明するような事件が起きた。

高田から約20マイル(32キロメートル)のところの山道に、その地方の大名管理下の警備所がある。すでに他の関所を通ってきたと同じように、この関所を通過しようとすると、数名の見張番が飛んできて、大声をはりあげて威嚇的な調子で私に帽子をとるように命じ、さらに私の肩に手をやりながら、無理やりにお辞儀させようとした。私は見張番らの手を振りほどいて、強制されたお辞儀もせずに歩いて行った。守備隊長に、部下の行為に対する謝罪と、わずらわされることなく関所を通行する承認とを要求した。

しかし、私はなんら保証を得ることができなかった。守備隊長が彼の部下の行為を正当化するので、私は要求がみたされぬかぎりこれ以上先に進むことを拒否した。

その趣旨の手紙を高田に向けて送った。翌日の夜、高田から二人の役人が到着し、私が受けた処遇について、彼らの主君である大名の遺憾の意を伝えた。

守備隊長も呼び出されて、私にたいし格式ばった陳謝をした。翌朝、関所通行の権利を確立して、私は改めて関所を通りぬけたのだが、その時、関所の正面で守備隊長の2度目の謝罪がなされた。そこで私は満足の意を表明し、この粗暴な行為は、大部分なにも知らぬために行なわれたものであるから、この問題に関してこれ以上の処置を講じないようにと言っておいた。

私が彼の過失をとりなしてやったことに対して、守衛隊長が私に感謝していることが耳に入ってもよさそうなものであるのだが。私がそうしなかったならば、彼はその時の粗暴な行為のために、地位を剥奪されていただろう。彼は、豪傑風の口調で、今後、職務を熱心に履行するあまり、礼儀の限界を踏み外すことがあれば、即座に、切腹によって謝罪する覚悟であると言った。

新発田で私は家老の訪問を受けた。家老は、大名に代わって、家来の治療に対する感謝の言葉を述べた。新潟では、当地の行政を司る長官の一人から、敬意を表わすための訪問を受けた。また新発田では、当地の大名の家老、ならびにミカドの軍隊の総督・仁和寺親王の家臣が私を訪れ、それぞれ、主君の名代として、私が行なってきた治療奉仕に対して深く感謝の意を表わした。

私は、負傷した捕虜がまったく見あたらないことに重大な意味を感じていたので機会がある度に、理由もなく人命を犠牲にすることの非人道性を指摘した。(注:捕虜は皆殺しにしていたということ。)

この戦争中、日本政府が、敵の捕虜に対して憐欄の情があることを立証しえない失望感を表明してきた。

私の失望感に対する弁解は、会津藩兵の捕虜は、ミカドの威光をきわめて悪しざまに侮辱するので、負傷者といえども、その生命を許しておくわけにいかない、ということであった。

総督・仁和寺親王の家臣は、戦争における人道主義と、他の国々で行なわれている負傷した敵兵に対する情深い行為(注:人道的行為)に関して、私が家臣に話したことを、皆、十分に総督・仁和寺親王に伝えようと約束してくれた。

翌日、総督・仁和寺親王は、私に使者を送られ、私が負傷者にたいする仕事を終え次第、会見したいと述べられた。

私は親王を訪問するに当たって、ヨーロッパ各国と同様に、高貴な方の面前で払われるのと同じ礼儀を守りたい、とお願いした。

会見の日、親王の侍医と護衛隊が派遣されてきた。彼らは、新発田の大名の城内にある住居まで私に随行した。親王は、私が非常に長い旅をしているので、疲れたのではないかと心配され、私になにか伝えたいことがないかとお尋ねになった。

私は、一番申しあげたいことはすでに家臣の方に十分説明しておきました、と答えると、われわれはその件はよく承知している、と親王は言われた。

負傷者についていろいろご質問になったり、おほめの言葉や雑談があったりしたのち、私は辞去した。親王は24歳になられるが、快い表情に富んだ顔で、もっと年をとっているようにみえた。親王の他にはミカドの宮廷の2人の貴族(西園寺公望・壬生基修)と、さきに述べた親王の家臣と、侍医(山科元典)および薩摩の将軍(吉井幸輔・中根善次朗)とが同席した。

宿に帰るとまもなく、私は、総督・仁和寺親王の命令によって書かれ、会見の席にいた二人の貴族(西園寺公望・壬生基修)の署名のある手紙を受けとった。

それには、私の任務をさらに一か月延長し、再度、柏崎に行って、ミカドの軍隊の負傷兵のみならず、敵軍の負傷兵にも治療を施してもらいたい、と書いてあった。

その総督・仁和寺親王の要請について、私は、絶対服従しなければならぬ我が英国公使に手紙を送って問い合わせる以外になにもできない、と説明した。

そして、英国公使からの返事が着くまでの間、総督・仁和寺親王の書面に要請されている負傷兵治療に最善の努力を尽くすため、引き続き、明日、会津若松に向かって出発しましょう、と答えた。

私には、新発田藩の34名の護衛隊が随行した。会津若松に着いてみると、町の五分の四が、ミカドの軍隊が占領する時に焼失していた。会津若松の城下町で残っているのは一番中央の建物だけだった。外堀の内側に立っていた武家屋敷もみな焼け落ちて、残っているのは柱と壁の残骸ばかりであった。立っている建物も、大砲や鉄砲の弾痕で穴だらけである。

ミカドの軍勢が砲兵陣地を構築した丘の上から半マイル(800メートル)のところに会津若松城が見えた。

城の一番中央の建物のなかには、無数の鎧・火縄銃・槍・弓矢などが集められていた。これらの収蔵品のうちから、ミカドの軍隊の兵士らは、自分の好きなものを選んで持っていったらしい。

いくつかの鎧兜は、300年以上も昔のものであると聞かされた。

もっとも、丈夫な兜でも、ピストルの弾には耐えられるが、ライフルなら貫通することが、実際にやってみてわかった。一番古い鎧から判断すれば、日本では、過去300年の間、武士階級の身体の退化現象はみられない。

会津若松の占領は住民たちを驚愕させたらしい。4,000人におよぶミカドの軍隊の一翼は、かなりの期間にわたって構築されてきた難攻不落の防塁を攻略して迅速に有利な地歩を確保した。

ミカドの軍隊は、夜のうちに、23マイル(37キロメートル)の強行軍をした後、夜明けに会津若松に到着した。ミカドの軍勢が突入してくるのを見て、会津若松の市中に恐ろしい大混乱がまき起こった。

多数の市民が、逃げまどう最中に、街頭で銃弾に当たって倒れた。町のさまざまな方角から火の手があがった。会津藩軍とミカド軍の戦闘が、一日中、街路でくりひろげられた。夜になって、会津藩軍は城のなかに退却した。

会津藩の家老のうち、最初から和睦を唱えていたため臆病者扱いされた者(西郷頼母)がいた。彼はミカドの軍隊が突入してきた時、城中に退くことを拒んだ。彼は、自分の妻と5人の子供を自らの手で殺した後、街頭で死物狂いに闘って倒れた。

一か月にわたる包囲攻撃は、会津藩軍を窮地に追いやったにちがいない。城には防弾設備のある建物はなかった。防御となるものを求めて城に逃げ込み、砲撃を受けて負傷した老人や婦女子を、私は、実際に見た。その包囲攻撃を受けた者のなかの日本婦人の勇敢な精力的な働きについては、数々の物語が伝えられている。彼女たちは黒髪を切り落とし、食事の炊き出しや、負傷者の看護に忙しく立ち働き、幾夜となく鉄砲を肩にして歩哨の苦労を分担した。

両軍の戦闘が熾烈を極めたにもかかわらず、ミカドの軍隊は、捕虜をかなり寛大に取扱ったようだ。

これに対して、会津藩の軍隊は、ミカドの軍隊の兵士たちばかりか、捕えた人夫たちまでも殺したといわれる。この話の確証として、4日間も雪の中に倒れていて、両足の機能を失った一人の人夫に会ったことを私はここに記しておきたい。

その人夫は、もし会津藩の兵士に捕まっていたならば、酷い死に目に遭わされていただろう、と私に語った。

そのほか、私は、会津若松で、世にも悲惨な光景を見た。たくさんの死体が堀から引き上げられた。彼らは、両手を背中にうしろ手に縛られ、腹を深く切り裂かれていた。


私は会津藩の軍隊の兵士たちの、残酷行為の物語をいろいろと耳にした。長岡では、彼らは、ミカドの軍隊の病院にいる負傷者や医師たちを皆殺しにした、と聞いた。

会津藩の軍隊の兵士たちは、退却して行く途中で女たちを強姦した。家々に盗みに入り、反抗する者は、みな、殺害した。


③ ウイリアム・ウィリス(wikiより)

幕末維新に駐日英国公使館の外交官・医官として来日し、東京の初代副領事になった。生麦事件をはじめ幕末の歴史的重要事件で数多くの人命を救い、日本人医師に実地指導をして西洋医学を広め、戊辰戦争で敵味方の区別なく治療をして、日本に初めて赤十字精神をもたらした。後に、新政府の要請で東京医学校兼大病院(東京大学医学部前身)や鹿児島医学校兼病院(鹿児島大学医学部前身)の創始者となり、日本の近代医学・医療の基礎を築き、発展に貢献した。西南戦争勃発で帰国。後に、イギリス外務省からバンコクの総領事館付医官に任命され、タイ王国でも医学・医療の基礎を築き、発展に貢献した。