廃藩置県後の地域の統廃合に起因する不平不満は東北地方だけではない | 日本の歴史と日本人のルーツ

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東北地方の旧奥悦羽列藩同盟に属し賊軍となった地域の人々には、廃藩置県で藩が消滅して統廃合されたとか、県名と県庁所在地名が異なるなどと、僻みによる誤解で不平不満が現在もある。

官軍に属した県が多い中国・四国地方にも県の統廃合による誤解と不平不満がのこっていたようだ。

ちなみに、現在の鳥取県の県庁所在地は鳥取市、島根県は松江市、高知県は高知市、愛媛県は松山市、香川県は高松市、徳島県は徳島市となっている。たしかに、県名と県庁所在地名が異なる地域は松平氏支配の地域になっていた。

ところで、山口県も分割案がかつてあった。現在の下関市をそのまま福岡県に移譲し、その他は広島県に移譲するものである。下関市と北九州市は経済的にも文化的にも親和性があり(参考)、関門市構想がかつてあったように統合に反対者はいない。現在、海底トンネルが三本、橋が一本、そして渡船があるが、さらにもう一本トンネル又は橋の建設に向けて動き出した。


参考

① “受難”再び…地図から消された「あの2県」

YOMIURI ONLINE(2018.9.4、参考)

読売新聞編集委員、BS日テレ「深層NEWS」キャスター 丸山淳一

お盆の帰省、夏の高校野球、さらには台風の予想進路など、この季節はとかく故郷が気にかかる。愛着のある出身県がもしも、隣の県と「ひとまとめ」に扱われたら…。独立を許されずに“消滅”してしまったら…。時の為政者たちの都合で、そんな目に度々遭わされた2つの県がある。

徳島、鳥取「受難の歴史」

改正公職選挙法が可決、成立した衆院本会議(7月18日)

参議院の定数を6増やす改正公職選挙法が成立した。政党の決めた順位に従い、候補者が優先的に当選する「特定枠」が導入され、来年夏の参議院選挙から実施される。

参院選の比例代表は個人名票が多い順に当選するのが原則なのに、そこに特定枠を混在させるのは極めて分かりにくい。自民党が特定枠にこだわったのは、前回(2016年)の参議院選挙で1票の格差を是正するために合区となった「徳島・高知」「鳥取・島根」選挙区で、比例選に回ることになった候補を救済する狙いがある。

「深層NEWS」に出演した自民党の柴山昌彦筆頭副幹事長はその狙いを認めた上で、野党にも利点はあるため「党利党略ではない」と釈明したが、改正が参院の抜本改革には程遠いことは安倍首相も認めている。

実は「徳島・高知」と「鳥取・島根」は明治時代にも行政区見直しの焦点になり、鳥取県と徳島県は、一時日本地図から消えた時代がある。

35県に厳選!明治政府の統廃合

今の都道府県は、1871年(明治4年)7月の廃藩置県だけで今の形になったわけではない。まず1868年(慶応4年)4月、旧幕府の領地(天領)が政府の直轄地になり、3府41県が置かれた。

廃藩置県で261の藩は消滅して県になり、旧幕府領とあわせて、全国に3府302県もの行政区ができた。これでは人口や面積、財政規模などに差がありすぎるということで、その4か月後に302県は72県に統廃合された。

明治新政府はさらに各県の財政力や人口をそろえるため、1876年(明治9年)、さらに県を35まで減らす大統合を断行した。この時徳島県は高知県に、鳥取県は島根県にそれぞれ統合され、復活まで苦難の歴史をたどることになる。なお、徳島県はこの 紆余うよ 曲折の間、県都・徳島の郡の名をとって「 名東みょうどう 県」と名乗ったが、以下文中では徳島県と表記する。 

香川にフラれ高知に呑まれる…徳島の悲劇

注:1871年7月14日の廃藩置県から4か月間、淡路島の北半分(津名郡)は兵庫県

徳島県のもとになった阿波国は、豊臣秀吉(1537~98)の天下取りを支えた蜂須賀正勝(1526~86)の嫡男・家政(1558~1638)が領して以来、ずっと蜂須賀氏が治めていた。

廃藩置県で成立した徳島県はいったん香川県を併合するが、阿波と讃岐はそりが合わず、政府はわずか2年半で香川県を分離する。ところがその翌年の府県統合で、今度は徳島県が高知県に併合されてしまう。

予算配分の不公平や、徳島支庁が出張所に格下げされたことに対する不満が高まり、徳島の豪農らは高知県会に徳島県の分離を求めた。自由民権運動が高まっていた高知県でも、「立志社」の植木枝盛(1857~92)らが、徳島選出の議員がいる県会の開催に反対して独自の議会「土佐国州会」を開き、県から解散を命じられている。

徳島消滅、真の狙いは「淡路島」?

明治新政府の県の統廃合について、慶応大学教授の清水唯一朗さんは『近代日本の官僚』(中公新書)で、「財政適正化は表向きの理由で、旧藩の影響力と反政府の傾向が強い難治県を廃することが目的だった」と指摘する。富国強兵を進めるには、政府の号令に従わない県は邪魔というわけだ。

徳島が難治県とみなされた背景には、淡路島の帰属問題があったとされる。蜂須賀家政は秀吉の死後、徳川につき、関ヶ原の戦いや大坂冬の陣・夏の陣で活躍した論功で淡路を拝領し、江戸時代を通じて治めていた。だが、廃藩置県の直後、淡路の北半分(津名郡)は兵庫県に編入された。これは廃藩置県の前年に起きた「稲田騒動」の影響だった。

蜂須賀氏は11代将軍徳川家斉(1773~1841)の22男を養子に迎えたため、幕末には倒幕に動かなかった。筆頭家老で洲本城代の稲田氏は岩倉具視(1825~83)に接近し、明治維新に功績をあげたのだが、明治新政府は、蜂須賀氏の家臣は全員士族とし、稲田氏の家臣は陪臣(卒族)扱いにしたため、不満を抱いた稲田氏の家臣は、士族への編入と徳島藩からの分藩を求めた。稲田騒動とは、この動きに反発した徳島藩士が、洲本の稲田氏の別邸や学問所などを襲撃した事件という。

政府は 喧嘩けんか 両成敗の方針で臨み、徳島藩の首謀者に切腹を命じた。日本最後の切腹刑といわれる。一方の稲田氏や家臣には北海道への移住が命じられ、移住費用は徳島藩が支払うこととされた。廃藩置県直後に淡路島の北半分が兵庫県に編入されたのは、稲田氏の移住が終了するまで、その旧領を徳島県から切り離して騒動を鎮めるためだった。徳島藩が財政難で移住費用を支払えず、兵庫県に肩代わりさせた見返りでもあった。 

「統合は無理」伊藤博文に建議書

伊藤博文

稲田氏家臣の移住完了後に、淡路はいったん徳島県に戻されたが、高知県への併合にあわせて淡路全島は兵庫県に編入されてしまう。騒動のしこりが残っていたのに加え、内務卿の大久保利通(1830~78)が「開港場がある兵庫県の力を充実させるように」と指示したためという説もある。兵庫県は播磨・但馬・丹波に淡路を編入して、近畿最大の県となった。

徳島県を併合した高知県では、土佐国州会の解散後に、徳島選出議員も加わって改めて第1回県会が開かれたが、土木予算の配分で徳島と高知の議員が激しく対立し、高知県令(今の知事)・北垣 国道くにみち(1836~1916)は内務卿だった伊藤博文(1841~1909)に「土佐と阿波は土地や人情が大きく違い、統合は無理」とする建議を出した。 北垣は伊藤ら旧長州藩士に知り合いが多く、高知県令になる前に地方行政の監察官(弾正台)として淡路で稲田騒動の調停にあたっているから、伊藤も耳を傾けたのだろう。併合から4年で、徳島県は再び高知県から分離された。 

官軍側の大藩、なのに…鳥取の屈辱


徳島県は他県を併合したりされたりしたが、鳥取県は一方的に島根県に呑み込まれた。島根県令代理の布告で併合を知らされた鳥取県民は「誰一人として信ずることはできない位であった。特に因幡人士の驚愕は言語に絶した」(『鳥取県郷土史』)という。

「風俗人情が異なる」だけではない。鳥取藩は因幡・伯耆32万石、約38万人の人口を持つ山陰の大藩だったが、松江藩は18万6000石で人口は約30万人。鳥取藩は鳥羽伏見の戦いでいち早く官軍に加わり、あいまいな態度をとった松江藩が新政府に追及された際に寛大な措置を求めている。鳥取県民にとっては「維新の当時、我が藩の尽力によって救われた松江に併合される事は、この上もない屈辱」(同)だった。

特に松江から遠い県東部の因幡には士族が多く、不満は大きかった。県都でなくなった鳥取の町は「火が消えた如く」さびれ、禄を失った士族が新たな職に就くことも難しくなった。

士族らは他地方への米の移送を止める強硬手段に出て鳥取県の復活を求めた。治安は悪化し、鳥取に来た島根県令代理が襲撃を恐れて早々と帰途につき、倉吉で泊まろうとしたが誰も宿を貸さず、徹夜で松江に逃げ帰ったという記録もある。

県復活へ、山県有朋を動かした熱意

徳島県が高知県から独立したことも士族らを勢いづけ、島根県側からも鳥取県の分離を求める声が高まった。度重なる陳情を受け、参議だった山県有朋(1838~1922)の一行が鳥取・島根を視察することになった。

山県に随行した官僚らは「一部の士族の要求に応じていたらきりがなくなる」とそろって鳥取県の復活に反対し、伯耆を島根県に残して因幡は東隣の兵庫県に併合するよう進言した。だが、山県は「復活を求める有志には開化や自治の精神がある」とこれを一蹴したという。

山県有朋

県西部の伯耆では因幡への反発が強く、米子や倉吉では鳥取県の復活に反対する運動も起きていた。だが、山県は士族の熱意と活力を信じたのだろう。尊王攘夷じょうい 派の志士だった山県は、因幡士族に幕末に暴れ回った自分の姿を見たのかもしれない。 

伊藤と山県はプロイセン(ドイツ)の中央集権体制を手本とし、政党政治や自由民権運動を嫌った。しかし、2人が地方自治の意義を認め、民衆の声に耳を傾けたことも間違いない。

徳島県と鳥取県の再置を見た他県でも分県運動が広がり、福井、富山、宮崎、佐賀、奈良の各県が復活した。徳島県から分離した後、愛媛県に併合されていた香川県が1888年(明治21年)に復活し、沖縄と北海道を除く今の都道府県の原型が確定した。

鳥取・島根の因縁…9月の自民総裁選にも


「明治の行政区の再編と今の参院の選挙区を一緒にするな」という方もいるだろう。だが、人口で規模をそろえ「格差」をなくす考え方は同じだし、地方ごとにある「風俗人情」の違いは、今でも国政に影響する。

9月の自民党総裁選では3選をめざす安倍首相に対し、参院竹下派が石破茂元幹事長を推すという。「参院のドン」青木幹雄氏と竹下派会長の竹下亘氏の地元はいずれも島根県で、石破氏の地元は鳥取県。青木氏の息子の一彦氏は、前回の参院選では鳥取で石破氏の支援を受けて当選している。

つけ加えれば、安倍首相は祖父が首相、石破氏の父は自治相・鳥取県知事。総裁選で両候補を推す派閥の長もみな世襲議員だ。首相も鹿児島で行った出馬表明で「薩長同盟」を口にしたくらいだから、自分は長州出身と意識しているのだろう。

生まれながらに「風俗人情」などの地盤を持つ“殿様“が国の“殿様”を決める総裁選を、下級武士から首相になった伊藤と山県はどう見ているだろう。もっとも、2人とも長州閥があってこそ首相になり、長らく政界に君臨できたのだから、苦虫をかみつぶしているとは限らないが。



② 「28都道府県」構想で宇都宮県と名古屋県と高松県が誕生、、、少子高齢化などで再度の再編があるかも!

NEWSポストセブン(2018.9.13、参考)

47都道府県を見直すとどうなる?(UIG=時事通信フォト)

社会のいたるところに、あらかじめ定められた「数字」がある。普段は“前提”として気にもとめないが、その数字を少し変えてみると──実は国のあり方を大きく変える“パワー”が生まれるかもしれない。例えば、「47都道府県」を見直すとどうなるか。

都道府県の数が現在の47となったのは、1888年だった。それから130年、東京府が東京都となるなど名称の変更はあれど、47という数字は変わっていない。

実は、それを変えようとする動きが20世紀初頭にあった。1903年、19県を廃止し、総数を28とする「府県廃置法律案」が閣議決定された。翌年4月の施行を予定していたが、日露戦争の勃発によって議会が解散し頓挫した。

地方自治制度に詳しい北海道大学の宮脇淳教授は、幻となった“28都道府県案”を「自治体の財源や権限を強める意味でも、改めて議論していい」と語る。

“統合再編”で消える県はどこになるか。当時の案は実に具体的だ。栃木・群馬・茨城の北部は、“宇都宮県”として統合。埼玉と山梨は東京に吸収される。その一方で、千葉は独立県として残る。

今でも“名古屋の植民地”と揶揄される岐阜や静岡は愛知と一緒になり“名古屋県”に統合される。

四国では愛媛と高知がそのまま残り、香川が徳島を吸収して“高松県”に。慢性的な水不足に悩む香川は長年、徳島を流れる吉野川の水利を巡って争いを繰り返してきた歴史があるから、意外と合理的かもしれない。

20近く県を減らすというのは、このようにほとんどの都道府県の境目が塗り替えられることを意味する。ただ、宮脇教授は、そのくらいドラスティックな変化があっていいと説明する。

「今、日本では急速に少子高齢化が進んでいる影響で、国と市町村に挟まれた47都道府県体制にも限界がきています。都道府県単位で支えている健康保険は財源の確保が難しくなっていて、この傾向は人口の少ない県ほど著しい。広域化を進め、一県ごとの人口を増やす改革は、有力な選択肢の一つです。

県の財政の足腰が強くなれば、地方が地域産品やサービスなどに個性を濃く打ち出し、国内はもちろん国際市場で強く発信することができるようになるはずです」(同前)

※週刊ポスト2018年9月21・28日号


③ 山口県を分割して福岡県と広島県で分け合う案が閣議決定まで行ったが、実現できなかった。