広島市中区の中島町の北部は平和記念公園として保存され、敷地の下に被曝直前の街並みが隠させている。これに対し、この平和記念公園の南の旧中島新町あたりは民間のビルが林立している。
この旧中島新町の往時の姿を再現した絵図面が原爆資料館1Fに展示されている!
参考
① 広島:爆心地近くの街並み 絵と地図で再現
尾崎稔さんが描いた旧中島新町周辺の地図=原爆資料館提供
広島に原爆が投下される直前の爆心地近くの街並みを、元住民で被爆者の尾崎稔さん(86)=広島市南区=が鮮やかな絵とともに地図で再現し、同市の原爆資料館に寄贈した。描いたのは爆心地から1キロ圏内にあった旧中島新町(現在の広島市中区中島町)の周辺。街は壊滅して残された写真などは少なく、貴重な資料だ。尾崎さんは「楽しい思い出が詰まった町が一瞬で消えた。記憶が鮮明なうちに描き残しておきたかった」と語る。
尾崎さんが生まれ育った旧中島新町は、元安川と旧太田川に挟まれ、現在の平和記念公園の南にあった。付近には県庁などがあり、市の中心部だった。
「学校から帰ると同級生と近くの川でウナギやエビを捕ったり、庭園でかくれんぼをしたりして遊んだ」と尾崎さん。しかし、自宅は空襲対策で家屋を撤去する「建物疎開」の対象となり、一家は1945年7月末、近くの旧大手町に転居した。
1週間後の8月6日朝、旧制中学2年で13歳だった尾崎さんは登校途中に爆心から約1.2キロで被爆し、顔などを負傷した。自宅は跡形もなくなり、祖母と妹、母を失った。2年後に父が戦地から復員するまで、年齢を偽って働き、きょうだい3人で生活した。
70歳を過ぎ、子供の頃に遊んだ庭園の風景、被爆時の光景などを描くようになった。地図を作ったのは2016年春。「2度がんに侵され、生かされたのは運命と感じた」といい、原爆が奪った日常を記録に残そうと考えた。建物疎開が始まる前の1944年当時の記憶を呼び起こし、県庁や県立病院、寺院、民家、船着き場などを詳細に描き、建物には屋号も書き込んだ。
現在の平和記念公園にあった繁華街・旧中島本町などに比べ、南側の旧中島新町の周辺は街並みに関する資料が乏しい。原爆資料館の担当者は「色彩豊かに再現され、当時の街の雰囲気が分かり、貴重だ」と指摘。尾崎さんは「被爆前に確かにあった街並みや暮らしを多くの人に知ってもらいたい」と話している。
地図は原爆資料館地下1階で展示されている。【寺岡俊】
② 「この世界の片隅に」支えた鉛筆画集 43枚の消えた町
広島の爆心直下に住んでいた男性が、原爆で失われたかつての街並みを描いた鉛筆画集が4月、7年ぶりに復刊し、発行元に全国から問い合わせが相次いでいる。国内外でヒットしたアニメ映画「この世界の片隅に」の制作で参考にされたことで知られ、復刊を求める声が広がっていた。
「元安川と陳列館(現在の原爆ドーム)の間の道路をバスが通りよった」
「虎屋旅館の前に下りてくる階段は横町の有田ドラッグの所から続いていて」
画集「消えた町 記憶をたどり」は、広島市の森冨茂雄さん(88)の43枚の鉛筆画を、証言を記した文章とともに収めている。看板が並ぶ商店街、民家がひしめく川べりなどを、記憶をもとに描いた。屋根瓦、土手の石垣、橋脚のれんがなども細かく表現している。
森冨さんは山口県生まれ。1936年、父が広島市中心部の寝具店を買い取り、近くの家に家族で移り住んだ。爆心地となった島病院(現・島内科医院)のそばだ。15歳だった原爆投下の日、爆心地から2・5キロ先の学徒動員先で被爆。自宅に向かって歩いていくと、街は変わり果てていた。父と祖母、弟2人と同居のいとこが犠牲になった。母は3年前に病死しており、復員した4歳上の兄と2人残された。