東大紛争と高校生活 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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1969年(昭和44年)5月13日は、著者は高校二年生になっていた。東大入試が中止され、本来なら東大に入れる実力がある先輩達が京大に入学したり、浪人して次年度の東大入試を目指したり、大混乱があった。多分、希望とは異なった人生を歩んだはずである。

著者は昭和46年に大学に入学したので影響は無かったが、学生運動に共鳴した生徒会が主催した全校集会に、今は無い旧体育館に集まって討論した思い出があるくらいである。

南西方向に見下ろす下関西高等学校(3D)、昭和44年頃に建設された理科棟(手前)が現存する。理科棟の出来る前は学生食堂があった。右下の敷地は下関商業高等学校。

南東方向に見下ろす下関西高等学校(3D)の旧体育館は今では住宅地になっている。ここで、全校集会が開かれた。プールも同時期に建設された。ごく少人数の女子の家庭科の授業ではプール近くの木造の建物前に並べた七輪の炭火で炒め物を作っていた。


参考

①-1 <あのころ>三島由紀夫、東大に乗り込む 全共闘と討論会

共同通信(2018.5.13、参考)


1969(昭和44)年5月13日、東大全共闘が主催した討論集会に作家の三島由紀夫氏が出席。1月に安田講堂が「落城」し停滞した闘争の盛り上げが狙いだった。

「諸君が一言『天皇』と叫んでくれたなら私も一緒に立てこもった」に爆笑、「暴力を否定しない点で諸君と一致する」には「異議なし」と、予想外の和やかさ。


①-2 <あのころ>ベ平連が反戦フォーク 新宿駅西口広場

共同通信(2018.5.24、参考)


1969(昭和44)年5月24日、東京の新宿駅西口広場でベトナム戦争に反対する市民運動「ベ平連」による「フォークソングの集い」が開かれた。毎週土曜日の夕方に「機動隊ブルース」「勝利を我等に」などの反戦歌を合唱する若者たちは3千人にも膨れ上がった。


② 東大紛争(wikiより)

1968年から1969年にかけて続いた東京大学における大学紛争で、東大闘争とも呼ばれる。主に学部生・大学院生と当局の間で、医学部処分問題や大学運営の民主化などの課題を巡り争われた。

沿革

1960年代の後半時期に、全国の医学部で学部生と研修医によって、全学連医学協や青医連が始めたインターン制度廃止を軸とした研修医の待遇改善運動が台頭し、東京大学医学部はその中心的拠点校であった

1968年1月、医学部学生大会は登録医制導入阻止や附属病院の研修内容改善などを掲げて無期限ストライキ突入を決議し、医学部は紛争状態に入った。2月、学生と医局員の衝突事件が起きると、大学当局は学生・研修医17名を処分したが、まもなくその中の学生の1人が誤認処分された疑いが強まる。学生側は処分撤回を求めたが、当局は一歩も譲らず、紛争は停滞局面に入った。6月中旬には、局面打開を意図した一部急進派学生が、自治会の統制を離れて安田講堂を占拠した。これに対し、大河内総長は6月17日に警視庁機動隊を学内に導入し、占拠学生を退去させた。

この機動隊導入は、当局自身の手による大学自治の放棄であるとして学部を超えて多数の学生と教職員の反発を招き、紛争を全学に拡大させる結果となった。自治会中央委など東大七者連絡協議会の呼びかけで、法学部を除く全学部の自治会は6月20日、機動隊導入に抗議する一日ストを行い、安田講堂前で開かれた抗議集会には約6000人が参加した。

7月上旬には、各自治会執行部より急進的な一部の大学院生らにより安田講堂は再び占拠され、これに新左翼セクトが加わり、東大闘争全学共闘会議が結成された。東大全共闘は当局に医学部処分撤回や機動隊導入の自己批判などを求めり「七項目要求」を掲げ、自治会中央委に代わって学生の支持を集めた。当局は8月10日に七項目要求のうち6項目を受け入れる解決案を告示したが、全共闘はこれを拒否し、紛争は後期にもつれこんだ。10月上旬には全共闘主導で全学部自治会が無期限ストに入った。

秋に入ると全共闘が「東大解体」を主張し、「全学バリケード封鎖」へと戦術を過激化させたのに加え、ストの長期化や民青系の巻き返しにより、11月には学部生の間で東大民主化行動委員会(民青系)と無党派学生グループ(クラス連合有志連合、大学革新会議など)が台頭し、全共闘と激しく対立した。一方東大当局では11月1日に大河内総長以下学部長全員が辞任し、後日加藤一郎を総長代行とする新執行部が構築され、紛争収拾に動き始めた。加藤代行は11月中旬、学生側へ紛争解決のために全学集会の開催を呼びかけ、これに七者協や民主化行動委が呼応して各学部・院系から「統一代表団」を選出する運動を始めた。11月から12月にかけて民主化行動委と無党派グループは共同して各学部の学生大会に代表団を選挙させ、統一代表団を形成。年が明けた1969年1月10日、全学集会で加藤代行と統一代表団は「確認書」を取り交わした。確認書は10項目からなり、医学部処分の白紙撤回や自治活動の自由化、今後の大学改革の方向性などを定めていた。全学集会に前後して各学部・院系のストは相次いで解除され、東大生の多数派が当局を相手とする紛争から離脱した。

一方、少数派となった全共闘は闘争継続を主張して安田講堂等校舎の占拠・封鎖を続けたため、1月18日から19日にかけて、当局の出動要請を受けた機動隊が安田講堂等の封鎖解除と共闘派学生の大量検挙を行った(東大安田講堂事件)。これで全共闘は大きな打撃を受け、紛争は収拾された。さらに1969年(昭和44年度)の東大入試佐藤内閣が中止を決定。全共闘は安田講堂事件以後、急速に退潮し1969年中には東大紛争は完全に収束するに至った。

安田講堂事件を含めた東大紛争では767人が逮捕され、616人が起訴された。一審判決で133人に実刑判決、400人超が執行猶予付き有罪判決、無罪判決12人であった。


③ 東大紛争での安田講堂(参考)



④ 京大立て看板撤去される 休日早朝、トラブルなし、、、昔なら火炎瓶が投げられていた!

共同通信(2018.5.13、参考)

4月、看板が設置されていた京都大吉田キャンパス周辺(上)と13日早朝に撤去された同所=京都市

京都市左京区の京都大吉田キャンパス周辺の公道に設置され、市から景観に関する条例に違反するとして指導を受けていた多数の立て看板が、13日朝までに撤去された。関係者によると、京大が同日早朝に撤去した。休日でもあり、目立ったトラブルはなかった。看板設置を吉田キャンパス内に限定する「京都大学立看板規程」に基づいた措置とみられる。

京大工学部1年の男子学生(19)は「京大らしさが失われて残念。まさか、大学がここまで徹底的にやるとは思ってなかった」と驚いていた。法学部2年の女子学生(20)は「京都市の方針なら仕方ない」と淡々とした様子だった。