邪馬台国の女王卑弥呼が、魏の皇帝から親魏倭王の金印と銅鏡百枚を貰ったとの記述が魏志倭人伝にある。その銅鏡百枚が三角縁神獣鏡であろうと言われているが、実際には日本国内から500枚以上見つかっており、中国国内からは論争のある一枚を除いて見つかっていない。
最近、三角縁神獣鏡は国内で全て作られた、それも一つの古墳から出てくる鏡は全て同じ仕上げ加工痕になっており、他の種類の銅鏡でも同じ仕上げであり、出土した現地の近くで作られた日本製では!?との指摘が出てきた。
この「一つの古墳から出てくる鏡は全て同じ仕上げ加工痕になっている」ことが事実なら、これこそ卑弥呼の貰った銅鏡である。すなわち、この銅鏡は魏の皇帝からもらったものだと国民に見せる為に使われたのであり、外気の当たるところに展示された。だから緑錆が銅鏡の全面に発生し、頻繁に錆落としが必要であった。これが研磨による仕上げ加工痕であった。専業の研師が古墳の被葬者の下に少なくとも一人は召抱えられていたであろうから、古墳毎に異なった加工痕になってもおかしく無い。
この三角縁神獣鏡は邪馬台国から更に日本全体の民に見せるためのものであり、たった100枚では足りず、国内で複製されたものと考えられる。もちろん魏の国では不要であり、ほぼ全て卑弥呼に与えられたと考えて差し支えない。
それでは、何故、卑屈にも邪馬台国の女王の卑弥呼は魏に朝貢して三角縁神獣鏡をもらって、国民に見せる必要があったのであろうか?実は、後の隋や唐もそうであるが、邪馬台国や後々の日本と仲の良い非漢民族(Y-DNA O1)が支配する国であり、この国と仲良くすることは邪馬台国、ひいては後々の日本の平和と安全を意味し、親魏倭王の金印と三角縁神獣鏡がその証明であったのである。
下関市の土井ヶ浜の人類学ミュージアムの研究によると、土井ヶ浜に渡来した弥生人は斉国の臨淄から渡来し、秦人や縄文人と同じY- DNA D2を持ち( 参考 )、漢民族(Y- DNA O3またはO2)と異なっていた。漢民族とは春秋戦国時代から犬猿の中であった( 参考 )。ちなみに海の民、海人族安曇氏はY- DNA C1である( 参考 )。
それに対して、卑弥呼の時代より前の弥生時代の北部九州の奴国は漢に朝貢して、漢委奴国王の金印と漢鏡をもらっているが、その関係をどう説明するのか?との指摘があろう。実は、北部九州に渡来した稲作弥生人は呉の国からであり、漢民族にも存在するY- DNA O2bを持っている呉の太伯の末裔であった(
参考 )。朝鮮民族や漢民族(
Y- DNA O3またはO2) に民族性が近く、邪馬台国と政治的な駆け引きがあったと考えられる。
ところで三角縁神獣鏡は4世紀以降の古墳しか出土せず、これに対し3世紀の古墳から出土し、そして中国大陸内にも出土する画文帯神獣鏡を卑弥呼の鏡とする説もある。しかし、これでは日本国内に到達した途端に古墳の中に死蔵されることになり、誰からも見られることなく消えていくことになり、鏡をもらう意味がない。
追伸
2018.10.13の報道で、黒塚古墳の三角縁神獣鏡が中国製であったことが報道された(
参考 )。
参考
① 三角縁神獣鏡、製作地論争 画期的「国産説」の登場
湯迫車塚古墳(岡山市)出土の三角縁神獣鏡の鋸歯文。3面とも型が違う鏡なのに、砥石による仕上げ加工痕が酷似している=鈴木勉氏提供
三角縁神獣鏡という、古代史の世界で特に目立ってきた鏡がある。鏡の縁の断面が三角形で、神や神獣の図柄をもつ。やっかいな鏡ともいえ、製作地が中国(魏)か日本国内かをめぐり、100年も議論になっている。
魏鏡説では、倭(わ)国(邪馬台国はその都)の女王卑弥呼の鏡とも呼ばれる。魏志倭人伝によれば、3世紀、卑弥呼は魏に使者を送り、贈り物をもらった。そのリストに「銅鏡百枚」とあり、魏の年号入りの品も含むこの鏡を指すと考えるのだ。
近畿地方が分布の中心なので邪馬台国畿内説の論拠にもなるが、重大な弱点がある。100枚どころか500枚以上も見つかっている上、肝心の中国から出てこないのだ。「倭の好む鏡を魏が特別につくって贈った。だから中国にはない」とする「特鋳説」があるが、考古学の常道にないアクロバット的学説だろう。
一方の国産説も決め手に欠けたが、1年前、画期的な新説が現れた。昨年この欄で紹介した「国宝・金印論争」にも登場願った鈴木勉・工芸文化研究所所長の著書「三角縁神獣鏡・同笵(どうはん)(型)鏡論の向こうに」(雄山閣)である。鈴木氏は金工や金石学が専門。物の形や文様の変化を追う考古学とは違い、実験が裏付ける製作技術の観点から製作地に迫った。
着目したのは、鋳造後の仕上げ作業。三角縁神獣鏡の文様には、三角形が連続する「鋸歯文(きょしもん)」がある。鋸歯文を拡大画像で比較すると、ヤスリや砥石(といし)で磨かれるなど、種々の異なる加工痕が残っていた。加工痕の違いは工房や工人、工具の違いを示すものという。
そこで、黒塚古墳(奈良県天理市・33面出土)など、三角縁神獣鏡が出土した10以上の古墳を対象に加工痕を比較した。
結果は簡明。仕上げ加工痕は出土古墳ごとに見事にまとまっていた。
三角縁神獣鏡では同じ型の鏡が複数存在する。同笵(型)鏡と言い、別々の古墳からも見つかるが、同型同士でも加工痕は古墳によってさまざまだ。一方、出土古墳が同じなら、異なる型の鏡にも同じ仕上げが施されている。つまり加工痕は鏡の型ではなく、出土古墳に規定されているのだ。
鋳造の最終工程で施される仕上げのまとまり具合から導かれる事実は明らかだ。鏡の製作地は、日本列島内の出土古墳近くということになる。
その上で鈴木氏は見つかる鏡の少なさなどから、工人が各地の出土古墳近くに定住しているのではなく、大和地域に本拠を置く複数の移動型の工人集団が各地の依頼で現地に出向いて製作する「出吹(でぶ)き」を想定した。
加工痕の画像という一目瞭然の新手法で国産説を提起した鈴木氏は「(鏡の形や図像、銘文をたどる)系譜論では、製作地問題は絶対に解決しない」と、製作技術に目を向けたがらない考古学の実情に警鐘を鳴らす。
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対する考古学界の反応がさびしい。1年たっても、村瀬陸・奈良市埋蔵文化財調査センター技術員の書評(「考古学研究253」所収)が目につくくらいだ。
村瀬氏は「実験あっての結果と、非常にわかりやすい分析方法。研究はネクストステージ(新段階)に入った。(本が)全て正しければ国産になる」と評価する。ただ「加工痕の古墳ごとのまとまりも、製作の時期差が加工痕の違いになった可能性がある」などと、鈴木説にはまだ課題があると考える。一方で「鏡研究者側が疑問点をどんどん出さないと」と、議論が起こりにくい学界の閉鎖体質も指摘した。
三角縁神獣鏡が国産なら、影響は甚大。考古学では従来、中国渡来の貴重な鏡が列島の中央から各地の首長に下賜・配布されたと考える中央集権的な王権論が主流だ。その鏡が国産で、しかも工人集団が各地に出向いて製作していたとなれば、半世紀以上に及ぶそんな定説的国家観など消し飛んでしまう。
27歳の若手研究者、村瀬氏に発言を任せておけばいいという問題ではないと思う。【伊藤和史】=毎月1回掲載します。
② 三角縁神獣鏡 中国で「発見」?=伊藤和史(編集編成局)
毎日新聞 2016年3月2日 東京朝刊( 参考 )
「初めて中国で発見された三角縁神獣鏡」とされる鏡。直径18・3センチ=西川寿勝氏提供 徹底的な追究を期待 三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)という日本の古墳から出土する銅鏡が、初めて中国で出土したとする報告が現れ、関西を中心に報道された。事実なら、古代史最大の謎、邪馬台国(やまたいこく)所在地論争を左右する発見だ。しかし、出土状況が不明なため、資料価値を全否定する見解もある。私も最初そう思ったが、興味深い論争を一歩前に進める機会になるかもしれないと考えを変えた。 日本の三角縁神獣鏡。黒塚古墳(奈良県天理市)で出土したうちの一枚。直径22・5センチ=西川寿勝氏提供 資料価値に問題、学者は見解対立 三角縁神獣鏡は縁部の断面が三角形の鏡。倭(わ)国(邪馬台国はその都)の女王卑弥呼(ひみこ)の鏡との説もある。「魏志倭人伝」によると、3世紀、卑弥呼は中国の魏に使者を送り、贈り物をもらった。そのリストに「銅鏡百枚」があり、魏の年号入りの品もある三角縁神獣鏡を指すとみなす。
近畿地方中心に分布する鏡なので邪馬台国畿内説の論拠なのだが、弱点がある。500枚以上も見つかって「百枚」を大幅に超えている上、肝心の中国から一枚も出てこないのだ。このため国産鏡説も根強く、「銅鏡百枚」候補は別の鏡だと考える。仮に中国での出土が確認されれば、長年の製作地論争を中国鏡説に導く注目の鏡であるわけだ。
今回の報告のきっかけは、2014年12月に中国河南省の研究者兼コレクターが研究誌に発見を掲載したことだ。大阪府教委文化財保護課の研究者、西川寿勝副主査が昨年11月、現物を調べた後、広く日本に紹介した。09年以前に同省の洛陽(らくよう)(魏の首都)近郊で農民が見つけ、骨董(こっとう)市に出されたのを研究者が入手したという。不明瞭な経緯だ。
先日、この発見をめぐるシンポジウム(邪馬台国の会主催)が東京であった。西川氏は、細部の形状や技法まで日本の出土品と比較した結論として、「日本で発見される三角縁神獣鏡と同じ人がつくった一枚」と断言した。
また、「日本の出土品が持ち出され、中国の骨董市場に出たのでは」という当然浮かぶ疑問には、「鏡面のさび方が、水分が多い酸性土壌の日本の鏡とは違う。乾燥地帯の洛陽地方出土の他の鏡と共通している」と反論した。
一方、国産鏡説の安本美典・元産能大教授は「捏造(ねつぞう)鏡だろう」と酷評した。安本氏は中国での偽物作りの巧みさ、市場の大きさなどを強調し、日本の出版物で三角縁神獣鏡のデータを参照すれば、簡単に偽造できると説明。その上で、「中国にも出土地や時期がわかっている鏡が1000枚はある。それを研究に使うべきだ」と批判した。
捏造か否かはともかく、後段の主張には説得力がある。というのは、資料の信用性に関し、日本の考古学者は痛い経験をしたはずだからだ。00年の旧石器発掘捏造事件の後、発掘現場では石器1点ずつの写真撮影はもちろん、位置や傾きなどの出土状況を綿密に調べ、記録している。
さらに、03年に提起された弥生時代の開始を500年早める論争でも、発掘資料の出土状況が問題にされた。新年代に従うと、弥生時代初めの福岡県・曲(まが)り田遺跡出土の鉄器の年代が中国の鉄器の普及より早いという矛盾を生む。新説への有力な反証だが、新年代論者は「写真や図など、出土状況の記録が報告書にない」と曲り田鉄器の価値を否定し、新説維持を図った。
邪馬台国の論争、前進める機会に
こうした研究の現況をみれば、出土状況を説明できない鏡の1点など取り上げるに値しないとの議論はありうる。
この点で西川氏は、考古学の方法論には精緻さのレベルが異なる手法が複数あると解説し、「今回は出土状況の対比ではなく、日本の三角縁神獣鏡と製作技法の細部を比較し、共通点が多い実態を示した。オーソドックスな方法論に基づく結果」と述べる。
確かに厳密な発掘による資料だけが考古学の材料ではない。私も骨董品店で著名な考古学者と鉢合わせし、「(骨董品も)研究に必要」と聞いた経験がある。西川氏も、旧家に伝わる来歴不明の鏡に関し、出土状況の詳細を追跡する作業を地道に続けてきた一人だ。
そこで、期待したい。今回の鏡の意味を多数の研究者の目で徹底的に分析・追究するのである。というのも、考古学界では、せっかくの論争が中ぶらりんに停滞するケースが結構あるといえるからだ。発掘捏造事件では、「研究者の石器を見る力の向上」の提案が立ち消えになった。弥生の新年代でも、異論反論が解消されずに十数年たった。三角縁神獣鏡の産地論争は互いの言いっ放しに陥ってほしくない。
今回、中国側は問題の鏡の分析で、日本の国家機関の参加を望んでいるという。中国鏡説の他の研究者は、西川氏に果敢に協力してはどうか。本当に使える資料なのか、明白な結果が出るまで、西川報告の価値を凍結するのは当然として。
③ 魏の始祖、曹操のY- DNA( 参考 )
④ 曹操の子孫(wikiより)
後世の正史晋書に複数の子孫が立伝されている他、新撰姓氏録や杜甫の杜工部集 など、複数の文献に曹操の子孫が登場する。例えば杜甫は友人・曹覇に送った詩「丹青引・贈曹將軍霸」で、「將軍魏武之子孫、於今為庶為清門、英雄割據雖已矣、文彩風流猶尚存」(あなたは曹操の子孫で、今は庶民だが昔は名門だった、三国の群雄割拠の時代は昔のことだが、曹操の文芸や風流の伝統はあなたにも伝わっている)と述べている。 日本にわたってきた渡来人の中にも曹操の子孫がおり、新撰姓氏録には「大崗忌寸、出自魏文帝之後安貴公也、大泊瀬幼武天皇[謚雄略。]御世。率四部衆帰化。(中略)亦高野天皇神護景雲三年。依居地。改賜大崗忌寸姓」とあり、曹丕(魏文帝)の子孫安貴公が雄略天皇の時に一族とともに帰化し、神護景雲三年に「大崗忌寸」の姓を賜ったとしている。この一族からは高向玄理が出ている。 2009年に曹操の陵墓が発見されたが、その真偽を確かめるために、復旦大学 では、被葬者の男性のDNAと全国の曹姓 の男性のDNAを照合することになった。漢民族では姓は男系で継承されるため曹姓の男性は曹操のY染色体 を継承していると考えられるためである。
これは一般的に言われていることですが、「三国志演義」の大元の話(おそらく講談などで話されていたものでしょう)が出来上がった宋の時代背景が関係していると言われています。
高校時代に世界史を学んだ方なら少し記憶にあるかと思いますが、宋は北部の女真族の侵攻受け王都を奪われ(金の建国)、王族は中国南部に遷都し少しの間その命脈を保ちます(いわゆる南宋の誕生ですね)。
つまりこの時代背景が曹操の悪玉化 とどう関係があるかというと、自分たちの本来の領土を異民族に簒奪されたという図式が、自分たちの王(漢の王様)の地位を本来その位につくはずのない人物(曹操)が簒奪したという点で一致していたというわけです。
実際にはこの漢の王族の劉氏から魏の曹氏(しかも実際は曹操の代ではなく、彼の死後息子の曹丕の代で行われている)への王朝の転換は禅譲(王位をそれに適した徳のあるものに譲る)であるため、曹操本人が非難を浴びる理由はないのですが、こういった背景があったと言われており、劉氏の血を引くと言われる劉備玄徳はその悪役に対する主人公としては最適な人物だったのでしょう。
⑥ 【萌える日本史講座】「卑弥呼の鏡」に新説「画文帯神獣鏡」…邪馬台国の“通説”塗り替える可能性も
産経新聞( 2013.10.27、 参考 )
中国大陸の魏から邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)に贈られた鏡が「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」であるとする説が、近年揺らいでいる。出土した古墳がいずれも卑弥呼の生きた3世紀ではなく、4世紀以降のもののためだ。これに代わって一躍脚光を浴びているのが、奈良県内で近年相次いで出土した3世紀の鏡「画文帯(がもんたい)神獣鏡」で、こちらを魏志倭人伝(ぎしわじんでん)にある「卑弥呼の鏡」とする見方もある。画文帯神獣鏡は中国北部の魏と異なり、南部の江南がルーツともいわれ、専門家は「卑弥呼の時代の大陸交流は魏に限らない。通説より拡大して捉えるべきだ」と提唱。研究成果次第では、邪馬台国・卑弥呼の“定説”を塗り替える可能性もある。(野崎貴宮)
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