天照大神の廣田神社、兵庫県西宮市 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

兵庫県西宮市の廣田神社は応神天皇陵や多くの天皇陵を通過する聖なるラインのキトラ線の延長上にあった。また、奥宮とされる六甲山神社から廣田神社を越えて延長すると卑弥呼(天照大神か?!)の墓と目される箸墓古墳に突き当たる。

まさに、応神天皇の母親の神功皇后が創建した天照大神を主祭神とする神社として相応しい位置に神社があった。

六甲山神社と六甲比命神社については、比叡山延暦寺への聖なるラインや高野山延暦寺方向への聖なるラインがあるが、焦点が一点に集中せずにボケている。すなわち、比叡山や高野山が開山した後と、創建時期が比較的新しいことを示唆している。二社とも廣田神社の奥宮とした解釈の方が正しいと思われる。

近くには、神功皇后や天照大神とのつながりが深い海人族の神社の西宮神社(えびす神: 事代主命、武内宿禰などと同一神)が住吉大社といっしょに寄り添っているところが興味深い。

{4243C05E-E38B-411B-817C-F5BFAE930A63}
箸墓古墳への聖なるラインは難波宮をも通過している。

① 青四角: 廣田神社
② 緑四角: 六甲山神社
③ 黄四角: 六甲比命神社

{F1FF9B05-7F58-4A71-B56A-94254876B00E}

④ 緑四角: 廣田神社、六甲山神社、六甲比命神社
⑤ 緑丸: 比叡山
⑥ 黒四角: 松尾大社
⑦ 赤丸: 箸墓古墳(倭迹迹日百襲姫墓、卑弥呼の墓?、天照大神?)
⑧ 青丸: 高野山
⑨ 黄丸: 熊野速玉大社

{06E04E85-5032-408A-B12A-7128A9AD29E8}

10 黄丸: 西宮神社(えびす神社の総本宮)
11 黒丸: 住吉大社
12 赤丸: 廣田神社
13 白丸: 難波大隅宮(応神天皇の宮)
14 青丸: 応神天皇陵


参考

⑴ 廣田神社(wik iより)

{813C14DF-B329-4AC2-BF21-4CD5D24B4E93}

天照大神荒魂 (撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかいつひめのみこと))

伊勢神宮内宮の第一別宮荒祭宮祭神と御同体(注: すなわち瀬織津姫のこと)

脇殿神 住吉大神、八幡大神、武御名方大神、高皇産霊神

日本書紀に当社の創建のことが書かれている。神功皇后の三韓征伐に出発する際、天照大神の神託があり、和魂が天皇の身を守り、荒魂が先鋒として船を導くだろうと言った。皇后の留守の間に忍熊王が神功皇后とお腹の中にいる皇子(後の応神天皇)を亡きものにしようと明石で待ち伏せていた。戦いを終え、帰途それを知った神功皇后は、紀淡海峡に迂回して難波の港を目指した。しかし、難波の港が目の前という所で、船が海中でぐるぐる回って進めなくなってしまった。そこで兵庫の港に向かい、神意をうかがうと、天照大神の託宣があった。「荒魂を皇居の近くに置くのは良くない。広田国に置くのが良い」と。そこで皇后は、山背根子の娘の葉山媛に天照大神の荒魂を祀られた。これが廣田神社の創建である。このとき、生田神社・長田神社住吉大社に祀られることになる神からも託宣があり、それぞれの神社の鎮座が行われた。すると、船は軽やかに動き出し、忍熊王を退治することができた。

朝廷より篤い崇敬を受け、『延喜式神名帳』では名神大社に列し、二十二社の一社とされ、たびたび奉幣勅使の派遣があった。

当初は甲山山麓の高隈原に鎮座し、後に御手洗川のほとりに遷座したが、水害のため、享保9年(1724年)に現在の西山の地に遷座し、1945年、空襲による全焼までは西側の廣田山に鎮座していた。戦後、その東側の現在地に移転した。明治4年(1871年には官幣大社に列格した(兵庫県で最初。伊弉諾神宮は1931年に列格)。かつて「向か津峰」と呼ばれた六甲山全山は、元は廣田神社の社領であったという。六甲山大権現を古くからの祭神とする六甲山神社(むこやまじんじゃ石の宝殿=現廣田神社の摂社)と六甲比命神社(むこひめじんじゃ)がかつての奥宮と考えられる。

{5AC749AA-CC38-4E41-AC48-47DE32C82E86}
旧鎮座地の高隈原は現在の高座町とすると、大きな誤差は無い。


② 六甲山神社(wik iより)

{73903452-994B-454E-8FD1-754AE6501214}

菊理媛命を祭神とする。加賀国白山白山比咩神社に同じ。伊丹市中野北の「六甲山大権現」の道標に示されるように、六甲山神社境内の石製の神殿の奥に六甲山大権現が祀られている。これが神社名由来の古くからの本来の主祭神と考えられる。六甲山石の宝殿が「広西両宮絵図」に西宮鎮守とあること、六甲山全域がかつての廣田神社の社領であったこと、六甲山がかつては向津峰(ムカツミネ)と呼ばれていたことから、廣田神社祭神、撞賢木厳魂天疏向津媛命(ツキサカキイズノミタマアマサガルムカツヒメノミコト)の奥宮としてとらえることが、整合性を有すると思われる。


③ 六甲比命神社(wik iより)

{AC06022A-3DEF-46F9-A36E-0CC4FDD5462E}

六甲比命大善神(弁財天)

祭神名は六甲の山名の変遷とともに変わってきたようである。六甲山は江戸時代以前には武庫という漢字があてられ、むこうやま、むこやまと呼ばれ、さらに古くは、賀茂真淵の『冠辞考』あまざかるの項に記されているように、向かつ峰の名が伝わるので、祭神名は当初はむかつひめと呼ばれ、近世まではむこうひめとよばれていたと思われる。六甲山全山は、かつて西宮市廣田神社の社領であり、廣田神社祭神、撞賢木厳魂天疎向津姫(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ またの名瀬織津姫)と六甲山の旧名の向かつ峰の名称が一致する。


④ 西宮神社(wikiより)

{DD85ABDA-7FE2-4AF1-82A0-92DA87EFDD61}

祭神:
えびす大神(西宮大神・蛭児命) - 第一殿・主祭神
天照大御神 - 第二殿
大国主大神 - 第二殿
須佐之男大神 - 第三殿

創建時期は不明だが、延喜式内社の「大国主西神社」に同定する説がある。現在、境内末社の大国主西神社が式内社とされているが、後述のように西宮神社自体を本来の式内大国主西神社とする説もある。だが延喜式神名帳では菟原郡となっており、西宮神社がある武庫郡ではなく、西宮神社にせよ現在の大国主西神社にせよ、式内社とするには一致しない。ただし武庫郡と菟原郡の境界は西宮神社の約200m西側を流れる夙川でありこの河道の変遷により古代は菟原郡に所属したとする説もある。

式内大国主西神社との関係がいずれとしても、平安時代には廣田神社の境外摂社であり「浜の南宮」または「南宮社」という名であった。廣田神社と神祇伯の白川伯王家との関係から頻繁に白川家の参詣を受けており、既に篤く信仰されていたことが記録に残っている。


⑤ 六甲山の磐座

六甲山中に聖なるラインに沿って磐座が並んでいる。神聖さを演出するもので、磐座があるから古社であるとは限らない。

磐座の巨石群は古代コンクリート(ジオポリマーコンクリート)で作られており、縄文時代から作られてきたが、この磐座の存在で時代を確定することは出来ない。

{AF1D379F-D273-4C68-A968-75B87757E4AE}

赤丸: 廣田神社
黄丸: 六甲山神社
緑丸: 六甲比命神社の磐座
青丸: 天穂日命の磐座
白丸: 越木岩神社の磐座

{14FBD3D1-D8B9-48A8-92E0-25293C88E80C}
天穂日命の磐座

{6A3AEDD6-1F4C-4C70-A476-D3BA3BE027EF}
六甲比命神社の磐座

{398F7714-054E-469A-A9DE-B9A36DCB50FD}
越木岩神社の磐座