秩父の山奥、群馬県、埼玉県、そして長野県の接する三国山近くに、高天原山がある。そして、周辺の地名に天や神の付く地名が集中している。
この辺りは関東と甲信越を結ぶ、さらに太平洋と日本海を結ぶ要衝の地にある。狩猟採集社会にあった縄文時代以前においては、山の民の縄文人にとって生活にも適した地であったと考えられる。
縄文時代終末期、気候変動で居住域を北に移していく山の民の縄文人達にとって、このあたりの山岳地帯は最後のパラダイスであった。この地は不老長寿の仙人の住む蓬莱山高天原(富士高天原)の一つであったのであろうか!?
彼ら縄文時代の山の民の居住地に律令制時代、すなわち8世紀初頭の人々が高天原とか天や神のついた好字令に基づく漢字二文字の地名を付けて、尊んだと考えられないか?!一般的に今でも洞窟などが御神体の神社があるが、古代の民を神様扱いしたと考えられる。
関東平野全体としては、海浜部には海の民の海人族が居住し、そして山の民の縄文人が去った陸上部には古墳時代以降、秦氏、新羅、高句麗、百済からの入植があり、彼らがそれぞれ地名を付けて行ったと考えられる。
平野部の山の民の縄文人は北に撤退しており以前の地名は失われたが、江戸時代まで縄文人が残留した山間部に彼らを神様扱いした地名が付いたのである。
実はこの辺り秩父山系は、昭和30年あたりまで平野部の民の目にすることの出来た山の漂泊民と言われるサンカの里であり、ほぼ間違いなくサンカは縄文人の末裔の一派と言えそうである。
① 読者からのご指摘
私は普段は祖母の介護をしながら、遺跡発掘調査の作業補助に携わっています。
埼玉県川口市です。
子どもたちが中学生になって部活動が始まるまでは、四季問わず人里離れた山奥(秩父連山)で野営を張ることをしていました。
今回MATさんにメッセージさせて頂いたのは、関東甲信越地方の「高天原」についてです。
MATさんはもう御存知だと思いますが、群馬県上野村の日航機事故のあった山は、確かに御巣鷹山に連なる尾根伝いでもあるので、御巣鷹山が象徴名になっていますが、あの辺りは「高天原山」です。
しかしあの地域の方々の意もあり、日航機事故の際に「高天原山の尾根」とは使えなかったと、上野村にある温泉宿の方から聴きました。
秩父地方はとても面白い地名がたくさんあります。
今思い付くだけでも、両神や小鹿野・国道140号線沿いには神庭(カニワ)、そして中津渓谷、そこから上野村に抜ける場所は天丸峠(天丸山)、埼玉県と群馬県の間には神流、などです。
神庭には縄文人の居住跡のある洞窟が遺跡としてありますが、私の予想ではその洞窟を居住場所として使用していたのは、縄文よりもっと以前からだと感じています。
天丸山の天丸峠にも、神庭の洞窟に酷似する口の大きな洞窟がありますが、あまりにも人里離れていることと、崩落の危険性が高いので、発掘調査はされていないようです。
私はまだ秩父連山地域に詳しくはないのですが、日本海の新潟地方から長野県を通り、秩父地方を抜けると日高市にも出られますから、先日のMATさんの記事にも繋がり、とても納得出来ました。
日本海は大きな湖のようだった時代が長いので、大陸からの移入は長い間とても有効だったと思いますし、太平洋側の航行技術と日本海航行技術はとても違ったと私は考えています。
気候が違えば、海岸部も形状が違い、もちろん海流も違いますし、風も違いますね。
そんなことを考えていると、とてもワクワクします。
秩父の山の頂から見る富士山もとてもとても美しいです。
これからもMATさんの記事を楽しみにしています。
② 著者注:
下関市の老僧岩と言う神社はそんなに古くはないが、巨大な岩の下の空間が御神体である。また、神社の本殿または御旅所、奥の院が古墳や古代遺跡の跡地であった例は非常に多い。
縄文時代以降も江戸時代までの長い間、この洞窟を人が利用していたそうです。
④ 秩父はサンカの里
④-1 70歳台の山好き、民俗学好きの老人です。
サンカと呼ばれる人たちは昭和の始め頃まで自由に山に住み独自の生活をしていたと言われますが山から出て一般人の生活をする政府の奨励と戦争中の配給制度、徴用制度の強制で山に住めなくなり戦後はほとんどサンカ独特の生活をする人は無くなったと言われます
50年前の山岳部員だった頃、関西の葛城山、関東の秩父山系などでサンカの人たちに出遭ったら興味本位で見ないようにと先輩に注意されましたが出会つたことはありませんでした。地元の人に聞いても戦争前は箕(竹細工の家庭道具)を売りに来てお米と交換したが戦後は来ないと言うことでした(ヤフー知恵袋より)。
④-2 秩父出身の男に、両神山の麓にサンカの末裔が住んでいると聞いたことがあります。
サンカと称する者の生活に付ては、永い間に色々な話を聞いて居る。われわれ平地の住民との一番大きな相違は、穀物果樹家畜を当てにして居らぬ点、次には定まった場所に家の無いと云ふ点であるかと思ふ。山野自然の産物を利用する技術が事のほか発達していたやうであるが、その多くは話としても我々には伝はって居らぬ 。(柳田國男「山の人生」)(参考)
④-3 奥多摩のさらに奥、奥多摩と甲府の間まで来ています。丹波山村。「たばやまむら」と読みます。読みは違うが、「サンカ」の本拠地と言われる京都の丹波と同じ地名ですね。
④-4 奥秩父山窩人形