東京都府中市にある大国魂神社は、かつての縄文時代の武蔵野台地の中央政府、すなわち日ノ本、または宮下文書にある富士高天原の首都であったのでは!?主祭神は山の民(縄文人)の神様で国土を神格化した大国主命であった。
雑談1
縄文時代、特に6000年前から5000年前の東京湾は縄文海進により広大なものであり、貝塚の分布を見ると沿岸は海の民が居住していたようだ。東の房総半島は巨大な島になっており、海の民(海人族安曇氏)の領域であったようだ。
ちなみに、上総国一宮の玉前神社の祭神は海人族の女神、玉依姫であった。また、かつてはウガヤフキアエズ(鵜葺草葺不合命)も祀っていたようだ。
雑談2
日本列島の縄文時代は山の民(縄文人、Y- DNA D2)と海の民(海人族安曇氏、Y- DNA C1)から構成され、関東に二つの民族が共に集中して、日ノ本と言う国を作っていたと考えられる。
ご祭神は、大國魂大神(おおくにたまのおおかみ)で武蔵の国魂の神と仰いでお祀りしたものである。この大神は素盞鳴尊(すさのおのみこと)の御子神でむかしこの国土を開拓され、人民に衣食住の道を授け、医薬禁厭等の方法をも教えこの国土を経営された。
当社の起源は、人皇第十二代景行天皇41年(一一一)5月5日大神の託宣に依って造られたものである。出雲臣天穂日命(いづものおみあめのほひのみこと)の後裔が初めて武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)に任ぜられ当社に奉仕してから、代々の国造が奉仕してその祭務を掌られたといわれる。
その後、孝徳天皇(596-654)の御代に至り、大化の改新(645)のとき、武蔵の国府をこの処に置くようになり、当社を国衙の斎場とし、国司が奉仕して国内の祭務を総轄する所にあてられた。
又、国司が国内社の奉幣巡拝、又は神事執行等の便により国内諸神を配祀した、これが即ち武蔵総社の起源である。
後に本殿の両側に国内著名の神、六所(ろくしょ)(小野大神・小河大神・氷川大神・秩父大神・金佐奈大神・杉山大神)を奉祀して六所宮とも称せられるようになった。
② 玉前神社(たまさきじんじゃ、wikiより)
『延喜式』神名帳を始めとして文献上は祭神は1座とされているが、古社記には鵜茅葺不合命の名が併記されている。そのほかに『大日本国一宮記』では前玉命とし、また天明玉命とする説もある。
④ 国魂(くにたま、wikiより)
本居宣長は、「その国を経営坐(つくりし)し功徳(いさお)ある神を、国玉国御魂」というと書いている。古来、国を治めるのは為政者だけでなく、その土地に鎮座する神の力も働いて成就されると考えられていた。