日本列島の考古学的な歴史を見るとは、3万6000年前-1万5000年前の後期旧石器時代そして1万5000年前から2800年前あたりまでの縄文時代にかけて、富士山を含む関東平野周辺に多くの遺跡が出土し、人口密度的にも集中していた。偽書と言われている宮下文書(支那震旦国皇代暦記)によると、蓬莱山すなわち富士山の山麓に高天原があったとされるが(参考)、富士山麓の狭い範囲とせずに富士山が見える関東平野一帯と考えられないか(参考)?!
ところで、著者が40年近く勤務した職場の周辺は武蔵野台地と言われる後期旧石器時代から縄文時代の遺跡があちこちにあった。この地域からは、晴れた日には美しい姿の富士山がハッキリと見える。この武蔵野台地は、南は多摩川や野川、北は新河岸川や荒川に挟まれた小高い台地である。この台地は関東ローム層に覆われて畑には向いているが、水田は出来なくて弥生遺跡は皆無であった。
この武蔵野台地は関東平野で富士山に最も近い広々とした台地であり、高天原(タカマガハラ)は高間原(タカマノハラ)とも書き、名前に相応しい地域であった。
参考
① 野川遺跡(参考)、調布市
JR中央線の三鷹駅から西国分寺駅の範囲の野川の周辺に後期旧石器時代から縄文時代の遺跡群が分布している
左が北側の武蔵野台地(段丘)、左に多摩川
② 野川遺跡(のがわいせき、コトバンクより)
東京都調布市上石原所在の先土器時代遺跡。多摩川支流の野川西岸に位置する舌状(ぜつじょう)台地に立地する。標高約48メートル、現河床面との比高約8メートル。1970年(昭和45)野川改修工事に先だって調査。立川ローム層中に文化層10層が確認され、石器群の変遷が層位的にとらえられた。また、狭い範囲から石器が集中して出土する状態を「ユニット」と呼称し、それぞれのユニットが反映する人間の行動が推定された。さらに、ナイフ形石器を出土する文化層を中心に、焼けた礫(れき)のまとまり(礫群)が多数検出された。礫群については、調理用施設としての機能が推定された。それらの調査は神奈川県月見野遺跡群とともに研究史のうえで一つの画期をなすものと評価されている。[戸沢充則]
『小林達夫他「野川先土器時代遺跡の研究」(『第四紀研究』10―4所収・1973・第四紀学会)』
③ 柄鏡形敷石住居跡、国分寺市
④ 鈴木遺跡、小平市鈴木町
⑤ 武蔵野台地(参考)