道鏡ゆかりの由義寺の遺跡 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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弓削道鏡ゆかりの由義寺の遺跡が八尾市に東弓削遺跡として出てきた。

あと一歩で天皇になれた道鏡は称徳天皇に寵愛された僧で、弓削氏の一族だったことから弓削道鏡と呼ばれる。

この弓削氏は河内国若江郡弓削郷(現在の八尾市東弓削あたり)を本貫とする物部氏系の豪族で、弓矢などの武器の製作にたずさわる弓削部を率いた。この一族から物部守屋や弓削道鏡を輩出した。

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東弓削遺跡

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右上に東弓削遺跡、中央と左下に二ヶ所の弓削神社

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大阪府八尾市東弓削3丁目付近


参考

① 大阪・東弓削遺跡:基壇跡発見、由義寺の塔遺構とほぼ断定

毎日新聞(2017.2.10、参考)

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由義寺の塔の基壇跡が確認された東弓削遺跡=大阪府八尾市で、本社ヘリから小関勉撮影

八尾市教委が発表

大阪府八尾市の東弓削(ひがしゆげ)遺跡を発掘調査していた同市教委は9日、塔の土台部分にあたる基壇が見つかったと発表した。専門家は「続日本紀(しょくにほんぎ)」に記載がある由義(ゆげ)寺の塔の遺構とほぼ断定。これまで幻とされていた由義寺が実在し、巨大な塔を伴っていたことが確認された。

由義寺は称徳天皇のそばで権力を握った僧、道鏡(不詳~772年)が建設に関わったとされる寺院。東弓削遺跡では昨年、奈良時代後半につくられた大量の瓦が見つかり、近くに建物の遺構があるとみて調査が続けられていた。

基壇は1辺約20メートルの正方形。高さ約100メートルともいわれる東大寺七重東塔の基壇(1辺24メートル)よりは小さいが、大安寺七重塔の基壇(同20.4メートル)に匹敵する大きさ。平城京の東大寺や興福寺と同型の瓦が多く出土しており、国家寺院と判断できる。塔は七重塔である可能性が高いという。木下正史・東京学芸大名誉教授(考古学)は「基壇の大きさや、平城京の瓦、続日本紀の記述などを総合すると、由義寺の塔とみてまず間違いない」としている。

基壇の造成には、粘質土と砂質土の層を交互に重ねて上から突き固める「版築(はんちく)」という工法が用いられ、高さ約70センチの層が確認された。実際には1.2~1.5メートルあったとみられる。柱を支えていた礎石とみられる巨石も見つかった。

「続日本紀」には、770年に「由義寺の塔の建設に伴い、その労に従って諸司、雑工ら95人に位階が与えられる」と記されている。由義寺に関してはこれが唯一の記述で、その位置や大きさ、塔が完成したかも明らかになっていなかった。

今回の調査では、基壇の周りから凝灰岩の切石の破片が多数出土。凝灰岩で基壇を装飾する作業は塔建築の最終工程とされ、塔が完成していたと判断できるという。滝浪貞子・京都女子大名誉教授(古代史)は「続日本紀の記述を裏付ける発見。考古学の見地から塔が完成している事実がわかり、幻の寺とされてきた由義寺の実態を解明する上で貴重な史料」としている。

八尾市教委は遺構の保存に向け、国や大阪府と協議を開始した。現地説明会は11日午前11時~午後3時、八尾市東弓削153の1の東弓削遺跡調査事務所で。問い合わせは同市教委文化財課(072・924・8555)。【遠藤浩二】

【ことば】由義寺

奈良時代の僧・道鏡出自の弓削氏一族の氏寺「弓削寺」として、742年以前に建立されたとされる。称徳天皇の信頼を得た道鏡は法王となり、弓削氏一族がいた周辺には西京(にしのきょう)と位置づけられた「由義宮(ゆげのみや)」が置かれ、弓削寺も由義寺として整備された。

格の高い基壇だが、基壇だけでは断言できず

箱崎和久・奈良文化財研究所遺構研究室長(建築史)の話 高さからみて格の高い基壇で、塔が完成していることは間違いない。ただ、基壇だけでは由義寺の塔とは断言できず、何重の塔かも確定できない。今後、木簡や墨書(ぼくしょ)土器など文字史料で確認できれば、由義寺の存在が確実になる。寺の性格がわかる金堂や回廊など、伽藍(がらん)配置の解明にも期待したい。

この大規模な基壇、由義寺以外に考えられない

元奈良文化財研究所所長の田辺征夫・大阪府文化財センター理事長(考古学)の話 現地を見たが、塔の基壇の大きさに驚いた。天皇の勅願でできた大安寺と同規模であり、天皇が肩入れしない限り作ることはできない。この場所にある大規模な基壇は由義寺以外には考えられない。伽藍配置もかなり大きいと考えられる。行政は国の指定を受けることも視野にこの地域を調査する必要がある。


② 出土した瓦(参考)

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平城京を代表する有力寺院興福寺や東大寺で使用されていた瓦と同じ様式の瓦が含まれていることも分かった。軒先を飾る軒丸瓦と軒平瓦の双方が発見された。


③ 弓削道鏡(八尾市観光データベース、参考)

弓削の地は道鏡の出身地である。

道鏡は「俗姓は弓削連河内人也」と続紀に記され、若くして葛城山に登り、如意輪法、宿曜秘法を修め、看病禅師として名声を博し、孝謙天皇の病をなおし、信任をえて、ついには法王(皇)となった。

しかし称徳天皇の死去とともに失脚、下野国薬師寺の別当におとされ、宝亀三年(七七二)に歿した。称徳天皇がこの地に行宮を造られるにあたり、信任の厚い道鏡は弓削宮(由義宮)の造営の許しを得た。

【出典:『史跡の道・説明石板』(八尾郷土文化推進協議会・八尾菊花ライオンズクラブ・八尾市教育委員会、1983年)】


④ 弓削神社、東弓削町(参考)

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弓削(ゆげ)神社:八尾市東弓削1丁目166

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弓削氏の祖神である天日鷲翔矢命と物部氏の祖神の彌加布都神、比古佐自布都神の二座をまつる延喜式内社で、河内国でも枚岡、恩智社に次ぐ三指に数えられた大社であった。弓削氏は河内国若江郡弓削郷を本貫とする豪族で、弓矢などの武器の製作にたずさわる弓削部を率いた伴造であった。この一族から物部守屋や孝謙女帝に仕え、その信任を得た弓削道鏡を輩出した。「続日本紀」の伝える女帝ゆかりの西の京址や弓削寺址も附近にあり、歴史的に由緒深い地域である。なお本社殿は、もと東方三百メートルの小字・古宮にあったといわれている。   八尾市教育委員会


④ 弓削神社、弓削町

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大阪府八尾市弓削町1丁目36

wikiによると、八尾の弓削神社は、JR志紀駅長瀬川を挟んで2箇所あり、東側の東弓削一丁目にある弓削神社と西側の弓削町一丁目にある弓削神社の二社一対で二座にあてている。両社とも式内大社である。