秦の始皇帝の咸陽宮の後継が奈良の吉野宮だった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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和歌山県新宮市から三重県熊野市あたりは、北緯34度14分の緯度上の沖ノ島と神津島の真ん中あたり、かつ日本列島の真ん中あたりでもあり、海人族安曇氏の根拠地であった。

ここに徐福達は上陸し、紀伊山地の中を北上して大和の地に入植した。当時の大和はまだ海人族安曇氏や弥生人達の混住の地であり、豪族達が覇を競っており、天皇家のルーツである徐福達は豪族の一つだったであろう。これが記紀の神武東征説話になり、神武天皇を案内した八咫烏とは、徐福と一緒に渡来し、十津川村あたりに定住した秦氏の一部のことであろう(参考)。

ただ、当時の彼等は大和の地、例えば橿原あたりで直ぐに大和朝廷を樹立したとは、史実としては考えられない。むしろ、一山越えて山中にあった吉野あたりに根拠地を構えたとは考えられないか!?この吉野宮の位置は真南に天河大弁財天社があり、さらに南に親衛隊のような十津川村の郷士達が控えている。

吉野宮は不便な山中にあるが、秦の始皇帝の咸陽宮と同じ星空の下にあり、天球の宮室に相当する位置にあり、正統天皇の象徴としての居所と考えられる!だから、主には壬申の乱、建武の新政からの南北朝時代、そして明治維新など歴史的な転換点で吉野宮と周辺地域が必ず登場するのである。

こんな山の中に籠ってどうするの?と思うが、山を越えて新宮や熊野あたりから船で日本全国に指令が出来たのである。実際、南朝の後醍醐天皇は日本全国に指令を出して、北朝天皇を操る足利尊氏と対峙した。

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横赤線: 北緯34度14分、縦赤線: 東経135度50分30秒、赤線の交点の赤丸: 天河大弁財天社、緑丸: 吉野宮、オレンジ丸: 玉置神社と十津川村、黄色丸: 徐福上陸地と神武天皇上陸地


参考

① 秦の始皇帝は北極星を中心とする星空の下で皇帝となった(参考)

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緑丸: 営室(咸陽宮)、赤丸: 北極星(阿房宮)、青丸: 閣道(後の長安)、横赤線: 厳密な北緯34度14分(天極、歳差による当時の自転軸と北極星の位置との誤差が分かる)

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緑丸: 営室(咸陽宮)、赤丸: 北極星(阿房宮)、青丸: 閣道(後の長安)、ピンク丸: 天極(当時の自転軸)

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緑丸: 営室(吉野宮、宮滝遺跡)、赤丸: 北極星(天河大弁財天社)、青丸: 閣道(宮の平遺跡)


② 吉野宮(wikiより、参考)、紀伊半島

『日本書紀』には応神天皇や雄略天皇の吉野行幸の記事が見られるものの、確実に離宮が存在したと言えるのは、斉明天皇2年(656年)にある吉野宮造営の記事以降のことになる。その後、天智天皇崩御の際に弟の大海人皇子(後の天武天皇)が妃の鵜野皇女(後の持統天皇)や子供の草壁皇子ともに吉野宮に隠棲したが、後に弘文天皇(大友皇子)と対立してここで挙兵した(壬申の乱)。こうした事情もあってか、天武天皇は同8年(679年)に皇后となった鵜野皇女や草壁皇子らを連れて吉野宮に行幸した(吉野の盟約)。その後、天武天皇および皇太子となっていた草壁皇子が相次いで没し、やむなく鵜野皇女が即位して持統天皇になったが、在位中に31回、孫の文武天皇に譲位後の大宝元年(701年)にも行幸しており、通算して33回の吉野宮行幸を行っている。文武天皇・元正天皇・聖武天皇によってその後も吉野宮への行幸が行われ、吉野宮の管理のために芳野監という官司が設けられたことが知られている。

吉野宮がどこにあったかについては過去において様々な説が行われてきたが、吉野川の右岸(北側)にある宮滝遺跡(奈良県吉野郡吉野町)の発掘調査によって複数期にわたる建物群の遺構および瓦や土器などの出土品が発見され、同遺跡が吉野宮の遺跡であることが確実なものとなった。


③ 十津川郷士(wikiより)

古くから地域の住民は朝廷に仕えており、壬申の乱の折にも村から出兵、また平治の乱にも出兵している。これらの戦功によりたびたび税減免措置を受けている。これは明治期の地租改正まで続き、全国でもおよそ最も長い減免措置であろうと言われている。

南北朝時も吉野の南朝につくしている。米のほとんどとれない山中ということもあり、室町時代になっても守護の支配下に入らなかったという。太閤検地時にも年貢が赦免された。大阪の役の際は十津川郷士千人が徳川方となり、近隣の豊臣派の一揆を鎮圧した。この功も合わせて、江戸時代に入っても大和の五條代官所の下で天領となり免租され、住民は郷士と名乗ることを許された。

幕末になると、上平主税などを筆頭に勤皇の志士となるものも多く、また千名を超える兵動員力を期待され、過激派公家の思惑などから薩摩、長州、土佐等と並んで宮廷警護を命ぜられた。


④ 十津川郷士(コトバンクより)

大和国十津川郷(奈良県吉野郡十津川村)の山村に居住した在郷武士。神武天皇や飛鳥朝に関連する伝承はともかく、南北朝時代には郷民が南朝方に属して活躍した確証があり、以来勤皇の郷を誇るに至った。1587年(天正15)の検地は、実測はほとんど行われず、郷中概算1000石が赦免地とされた。江戸時代もこの特権は継承され、年貢赦免の代務として御料林の材木運送(筏下し役)を負担した。1614年(慶長19)の大坂冬の陣および北山一揆(きたやまいっき)制圧などの功により郷士45人が鑓役とされ扶持米78石を給されている。1853年(嘉永6)米艦来航以来、郷民一致して国事への奉仕を申し出て許され、皇居守衛に交代出仕している。1863年(文久3)の天誅組(てんちゅうぐみ)の変には郷士1000余名が参加したが、「八月十八日の政変」による朝議変更が明らかになったため離反した。明治初年の神仏分離令により、郷民はことごとく神道に帰している。[平井良朋]


⑤ 紀伊半島中央部の東京式アクセント分布

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十津川あたりの緑部が東京式アクセント、新宮・熊野のオレンジ色は京阪式アクセントの影響を受けている。


⑥ 三重県熊野市波田須の徐福の宮(祠)と半両銭(参考)

この徐福の宮の階段の下から始皇帝時代(BC221〜210)の半両銭が数枚発見されたそうですが、現在は1枚しか残っていません(裏面の痕跡から見て少なくとももう一枚同時に出土したことがわかります)。私が実見した限りでは、始皇帝時代(BC221〜210)の中型半両銭(直径3.36cm、通説のような大型ではなく八銖半両というべきか〉)であることは間違いないです。

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⑦ 徐福公園/紀伊半島探訪(参考)

徐福は今から2200年ほど前、秦の始皇帝の命により、日本にやって来たと言われる。

司馬遷の『史記』の巻百十八「淮南衝山列伝」によると、秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不死(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとの記述がある。

日本では、青森県から鹿児島県に至るまで、徐福に関する伝承が残されている。

徐福ゆかりの地として、佐賀県佐賀市、三重県熊野市波田須町、和歌山県新宮市、鹿児島県いちき串木野市、山梨県富士吉田市、東京都八丈島、宮崎県延岡などが知られている。

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南紀白浜に行ったついでに、速玉大社の近くにある徐福公園を訪ねた。

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公園内には、徐福のお墓や顕彰碑が建っている。

徐福は、現在のいちき串木野市に上陸し、同市内にある冠嶽に自分の冠を奉納したことが、冠嶽神社の起源と言われる。

徐福はお茶をもたらしたと言われている。徐福が持ち込んだ中国茶と抹茶用の茶の花粉が受粉して、静岡の藪北種が誕生して煎茶の品種になったと考えられている。

静岡と埼玉は絹の織物が地場産業であるが、徐福は養蚕の技術も伝来させている。富士山の世界遺産登録対象から外されたということであるが、旧清水市の三保の松原は羽衣伝説で有名である。絹の透けた着物を織ることができたということであろう。徐福の一族の女官の着物姿のことを指しているという説もある。

逗子市や葉山町に残る縄文時代末期の遺跡は、陶器や古墳の埋葬方式から観て、徐福たちの居住跡であるといわれる。遺構から出土した漁具や水深測量の石球は、中国の徐福村の出土品と形状が酷似しているそうである。徐福が上陸したと伝わる三重県熊野市波田須から2200年前の中国の硬貨である半両銭が発見されている。波田須駅1.5kmのところに徐福の宮があり、徐福が持参したと伝わるすり鉢をご神体としている。


⑧ 海東諸国記における徐福の記述(wikiより)

秦の始皇帝の命令で渡来した徐福は、朝鮮半島で書かれた『海東の空諸国記』には孝霊天皇の時に不老不死の薬を求めて日本の紀州に来て、そして崇神天皇の時に死んで神となり、人々に祀られるとある。


⑨ 神武天皇上陸地(参考)

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新宮、荒坂の津

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黄印: 徐福伝説地(和歌山県新宮市と熊野市波田須)、ピンク印: 荒坂の津(神武天皇上陸地、熊野市甫母町)


10 紀伊山地における海人族安曇氏と山岳信仰(参考)

徐福達を乗せた船団の操船は海人族安曇氏によるもので、彼ら海人族の根拠地がここ熊野であり、修験道のルーツは紀伊山地の水銀を探す海人族の活動であった。中世の熊野詣は彼らに由来する。


11 高野山を開いた空海は讃岐の善通寺に生まれているが、安芸の宮島の宮司の佐伯氏とも同族(参考)で、三地点とも北緯34度14分に位置している(参考)。