崇神天皇の和風諡号について、日本書紀では御間城入彦五十瓊殖天皇、古事記では御真木入日子印恵命とある。皇后は日本書紀では御間城姫、古事記では御間津比売命となっている。
ここで議論となるのは御間城(ミマキ)、御真木(ミマキ)の解釈である。御(ミ)は美称と広く一般に解釈されており、間城(マキ)や真木(マキ)について検討する。結論を先に述べれば吉野のことであろう。
吉野はマキ(真木、槇、杉や松の古代における一般的呼称)が鬱蒼と繁る山間地であり(参考)、後代の万葉集にも「吉野の真木、、、」と歌われており、マキとは吉野と考えて良かろう。また、時代が降るが真木氏を名乗る豪族が吉野に存在した。
すなわち崇神天皇は吉野の豪族に入り婿したので御間城入彦と呼ばれ、妻は御間城姫と呼ばれたと考えられる。他の妃達は紀伊国の豪族の女や尾張大海媛と纒向に近い地域の豪族の女であり、皇后が最も近い吉野あたりの豪族の出身であっても可笑しくない(参考)。
すなわち、崇神天皇は徐福と一緒にやってきた童男(始皇帝の子達)の子孫であり、現地豪族(海人族安曇氏)の娘を娶ったのであろう。
ところで、古事記での皇后の名前、御間津比売命の間津(マツ)の解釈であるが、「松」と考えられないか?古代、マキ(真木、槇)とは広く一般的に松、杉、檜も含まれたと考えられている。
注意
御間城入彦(ミマキイリヒコ)五十瓊殖天皇を朝鮮半島の古代国家の任那(ミマナ)の城(キ)に初めて入った男王との解釈があるが、時代が異なる。御間城入彦、すなわち崇神天皇は卑弥呼の頃、西暦3世紀あたりと理解されているが、任那は西暦4から6世紀に存在し、重なりが無い。
参考
① 崇神天皇