秦の始皇帝は漢文だけで無く、漢字万葉仮名交じり文も発明した | 日本の歴史と日本人のルーツ

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秦の始皇帝や徐福は原日本語を喋り、漢字を使用したが漢語や万葉仮名の類いを使用していたであろうことは、既に指摘している(参考)。


ただし、八母音の日本語を喋る百済からの渡来人が作ったと思しき万葉集などの歌、奈良・京都の公家言葉、そして現代の大阪弁や京都弁などの京阪式アクセントの言葉(参考)と異なり、江戸から東京で喋られた現代標準語と同じ東京式アクセントの言葉(参考)を喋ったことになる。


それでは、彼ら秦氏はどのような文字言語を使っていたのであろうか?


日本に渡来した徐福が書いたとされる偽書の宮下文書では、通常の日本語文の漢字仮名交じり文と同じであるが、助詞を適当な漢字に置き換え、一見、万葉集の万葉仮名風となっている。それに対し、日本最古とされる古事記は一部万葉仮名を併用した漢文、日本書紀は基本的に漢文である。もちろん、その後に書かれた万葉集は日本人の心を歌う為、万葉仮名だけで書かれている。


漢文は秦の始皇帝が定めた多民族間のコミュニケーションの為の手段であり、文法・時制・表音の機能が無く、同一民族内の心情の機微まで表すコミュニケーションが出来ない。これに対し、万葉仮名は余りに煩雑である。平仮名や片仮名と漢字の併用法が確立されていない時期に、漢字のみで詳細なコミュニケーションが可能となる宮下文書風の漢字万葉仮名混じり文は必然的に考えられたとしても可笑しくない。


すなわち、秦の始皇帝は多民族間のコミュニケーション用の漢文、自民族内のコミュニケーション用の宮下文書風の漢字万葉仮名交じり文の両方を作り出したのではなかろうか!


ちなみに、秦の始皇帝の時代と同時期に存在した古代エジプト語(古代コプト語)は日本語と同じ膠着言語で、神聖文字(ヒエログリフ)を表意文字と表音文字の両方に使い、宮下文書風の漢字万葉仮名交じり文とよく似た形式であった。また、神代文字の豊国文字などのモデルとされる古代フェニキア文字や日ユ同祖論で指摘される古代ヘブライ文字は片仮名によく似ていると指摘されている。中国大陸の秦の領域から西域の砂漠を越えればガンダーラやペルシャなどのヘレニズム文化の世界になり、オリエントやアフリカの影響があっても自然である。



参考


① 富士古文献の文体(古事記、日本書紀との比較、参考


・富士古文献の文体は、全て漢字で書かれているものと、一部カタカナが使われているものがある。漢字で書かれているものも、漢文ではなく日本文であり、仮名部分も漢字をあてて書かれている。 


原文:大日留女命和獨身仁而一世四方之国尾司取里豊仁国尾治目給


訳文:大日留女命は独身にて一世四方の国を司取り豊に国を治め給う。 


・古事記は、基本的に漢文であるが人名や下の例の下線のように一部万葉仮名を併用している。


原文:次、國稚如浮脂而久羅下那州多陀用幣流(くらげなすただよへる)之時流字以上十字以音、如葦牙、因萌騰之物而成神名、宇摩志阿斯訶備比古遲神此神名以音、・・・・


現代語訳: 次、國稚(わか)く浮かべる脂の如くにして、久羅下那州多陀用幣流(くらげなすただよへる)時(流の字まで十字は、音)に、葦牙(あしかび)の如萌え騰(あがる)物に因て成りませる神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遲神(うましあしかびひこぢのかみ(此の神名は音)、・・・・


・日本書紀は、一部の歌などの万葉仮名を除いては、基本的に漢文(当時の中国語)で書かれている。 


原文:古、天地未剖、陰陽不分、渾沌如鶏子、溟涬而含牙。及其淸陽者薄靡而爲天・重濁者淹滯而爲地、精妙之合搏易、重濁之凝竭難。


現代語訳:昔、まだ天と地が分かれておらず、陰と陽が分かれておらず、混沌としていて鶏の卵のようでした。そこにほんのちょっと兆しがありました。 その澄んで明るいものは薄く広がって天となりました。 重く濁ったものは地となりました。



② 方士徐福、奇怪な「宮下文書」を残す(参考)

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↑徐福

秦の徐福は約2,200年前、日本に不老不死の薬を探しに来た・・・と謂う伝説があります。

司馬遷著:史記の中では異なった話が幾つか書かれているのです。

始皇帝の命で3,000人の童男童女(若い男女)、百工(多彩な技術者)を従え、五穀の種(麻・黍・稷・麦・豆)を持って東方を目指し「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王となって戻らなかった。これが知られている徐福の話。

同じ史記の中に徐福は出航していなかった・・・とか、一旦、帰って来て、「海神が始皇帝の礼が薄いと云い、薬を取ることを許してくれない。良家の童男童女と様々な分野の技術者を連れてくれば叶う」と報告して、上記の3,000人の童男童女、百工、五穀の種を持っていったとも書いている。「不死の薬と言う出任せで始皇帝から物品をせしめた詐欺師」なんて云われてもいます。

詐欺師ねえ。結構怪しい人ではあったみたいです。神仙道や医方術の方士であったそうだから。大体、史記の中でこんなに話が違う訳です。何やら現在一般的に伝わる人物像は、史記の中の「淮南衝山列伝118巻」の内容が主なんですが、実は万里の長城建設などの秦の始皇帝の圧政に反発した、偽りの計画的大移民だったんじゃないか?とも云われてて「詐欺師」と云われる由縁なんだそうです。

扨(さて)、古代朝鮮の書にはこういう記述があります。孝霊天皇の時に不老不死の薬を求めて日本の紀州に来て、崇神天皇の時に死んで神となり人々に祭られた。参照:朝鮮「海東諸国記」

以前に紹介した怪書「竹内文書」には日本に徐福が来て、天皇に会ったと書いてある。

矢張り、日本に遣って来たんでしょうかね。徐福伝説は、中国・日本・韓国に散在し、史書は地域によって様々です。日本では佐賀県・山口県・愛知県・和歌山県・静岡県など各地にあり、和歌山県の新宮には徐福祠(ほこら)がある。三重県との県境を流れる熊野川に一行は着いたと謂う。

徐福は、現在の山東省生まれで実在の人物とされています。日本が縄文時代から弥生時代に変わろうとしていた頃に訪れたとなっている。数千人の男女を伴い大船 団を率いて、機織り職人(ハタ(秦)織り)や紙職人、農耕、捕鯨、漁業、製鉄技術者、造船技術者などを連れて来た。五穀の種も持ってきた。此れは何処かに徐福村とでも云うものを構え、其処から探索しようと思っていた筈です。そういう事から弥生時代の稲作は徐福が伝えたのでないか?と謂われています。平原広沢を得て・・・平原広沢が何処なのかははっきりとは解っていません。

不老不死の薬を探しに来た・・・ってのはわたしにゃどうでも善いんです。
日本に遣って来て宮下文書(みやのしたのもんじょ)を編纂した・・・てのがメインなのですよ。

富士吉田の神社から発見された古文書「宮下文書(富士古文献)」は徐福が編纂した伝承があるのです。史記には「徐市」とありますが、宮下文書では「徐子」と書かれ、「徐子 仁博」とされています。

富士山には6,000年前から長寿の人達が住んでおり、宮下文書には、大和朝廷以前の歴史が書かれています。富士文書、あるいは徐福文献とも云われ、古代富士山長寿国が書かれているのです。此処は富士高天原王朝(フジタカマガハラ)と呼ばれ、紀元前約9世紀(縄文後期)頃に成立し、古代第1神朝~第2神朝の期間が2670年間で富士高天原王朝は第2神朝になり、神皇が22代とある。これを平均で割っても一代在位年数が121年!になる。

●宮下文書「徐福十二史談」

徐は姓、名は徐子。字名は徐福。(先祖の)子路は孔子の門人に入しより、これまで七代。諸文學に苦心勉強致し、本朝の国學を広く学び中天竺に渡り、釋迦如來の一最経の佛學を七年間、苦心勉強して学び、薬師如来之像を求めた。本国に帰り秦国王・始皇帝に従う。

舟に乗りて大海に遊び、東海に不二山を見付け大いに祝い、三年いたところを紀居国(紀伊)と申して、三年止まり居たる山を東海に掛る雲なく晴れ、不二山が明らかに現れ給うによって、この山を久魔野山(熊野山)と申すなり。

それより八十五船の大舟に、もろもろの品を積み、五百余人うち乗り不二山を目印に住留家濱(駿河浜)に着き給う。この処を宇記島原、またの名、吉原と申すなり。
松岡驛より水久保驛を越え山村にいで、割石峠を越し、不二山の中央高天原に入る。川口驛より阿祖山谷、三室の一つ、小室家基都驛(富士吉田市)に止りたもうなり。

秦国を出立の時は、則ち秦国三年六月二十日、日本国の孝霊天皇七十二年なり。

日本国の久魔野山(熊野山)裏に着きたるは同年十月二十五日なり。また、同天皇七十四年九月十三日、久魔野山を出立致し、不二山高天原、家基都驛(富士吉田市)に着き給う日は、則ち十月五日なり。

孝靈天皇七十六年十月十日、後の世の為に秦国人徐の徐福、謹んで記しおくなり。安元二(1176年)丙申年八月中に寒川神社の賓物の内の宝蔵より借受け冩しおく書なり。

とある。

宮下文書は徐福の子孫たちが、受け継ぎ加筆され、1,400年頃の記録で終わっている。徐福一行が平原広沢に永住し、子孫は「秦(はた~訓読)」姓を名乗ったと伝説にある。

富士吉田市では、徐福は此処で亡くなったとしている。彼は徐の姓を使うことはしなかったそうで、秦(はた)、羽田、波田などの姓が多い。羽田 孜氏(はた つとむ、1935年8月24日~政治家。衆議院議員 )は、「わたしは徐福の子孫」と云っている。

「徐福十二史談」は徐福の旅の記録ですが、「古代富士高天原王朝の興亡」。此れが宮下文書であります。祖皇大神宮の宮司職の宮下家から聞いた古伝承を筆録したものであろうと思われます。

中に古事記に関しての書見がある。古事記(712年)が書かれた、およそ920年前(紀元前210年)に書かれたのが宮下文書。589年に富士山七社大神宮宮司宮下記太夫元照の元に、宮下文書の噂を聞いた厩戸皇子(聖徳太子)が朝廷より派遣されて来て、此れを見せられた。皇子は驚嘆し、其の事を日記に記した・・・と、元照は述べている。皇子は徐福伝の書写が出来ると云う、秦河勝(はたのかわかつ~太秦(うずまさ)執政に関わり、日本の舞楽、能の始祖、雅楽の東儀家は直系の子孫とされている)を気に入り、同行させ近臣にした。皇子の史書に天馬黒駒に股がって奈良の飛鳥と富士を行き来した・・・って説話がある。

其の後、厩戸皇子は「天皇紀」「国記」「旧事紀」を編纂したが、蘇我蝦夷は息子の入鹿を殺害された悔しさに、厩戸皇子が編纂した書物を入れた庫を放火し自殺した。全てを焼失してしまった。天武天皇の命により再編纂されたのが「古事記」なのだと云う。

「古事記」は此れをヒントにしたのか?宮下文書の内容はまだ全部が解明されていないと云われます。奇奇怪怪文書であります。

「平原広沢を得て王となる」・・・古代富士高天原王朝の王になったってことかしら?そりゃ、天皇ではないですか。中国では神武天皇になった・・・なんて云われてるんですが、ちょっと無理がある。古来より宮廷祭祀における、祭具の製造・神殿宮殿造営に関わった忌部氏(いみべ)がいます。汚れ(けがれ)を忌む・・・から来ているそうですが、その子孫は後に「斎部(いみべ)」と名乗る。徐福は斎(さい)の国の人。これも無理があるかなあ。


③(別冊歴史読本77「古史古伝と偽書の謎」2004年より)富士山延暦噴火の謎と『宮下文書』(参考)

結論のみ抜粋:

先に述べたように「宮下文書」の噴火記述には、大幅な誇張や明らかな誤りが多数含まれている。よって、東海道の経路や変遷を語る部分にも誇張や誤りがあるとみるのが自然である。「宮下文書」が口碑伝承を拾っているとしても、「宮下文書」中の東海道の被災記事は、御殿場付近から甲斐国府に至っていた街道や富士山北西麓を通っていた支道の被災の記憶を、大幅に誇張して伝えているのであろう。


④ 幻の富士南朝-『宮下文書』-  (要約、参考)

富士古文書そのものではなく、これらをまとめた『神皇記』『富士史』『長慶天皇紀略』である。ここでは、南北朝時代関連の記事のみ扱う。

『宮下文書』の南北朝関連記事に信頼性は期待できないが、現地の伝承を調べる際には有益な情報もあるだろう。 伝承が先か、『宮下文書』が先か、という問題は残るが。 

当サイトは、「たとえ信頼性の低い史料といえど、少しでも史実が含まれているかもしれない」という立場にある。が、『宮下文書』については、ここに要約を載せただけでも、かなりご都合主義が目立つ。


「噂を流したところ、世の人はすぐに信じた」「死んだというのは実は身代わりで、本人は生きている」などという辻褄合わせがあちこちに出てくる。流石に辛い。


機会があれば、三河南朝、というよりは長慶天皇にまつわる各地の伝説についても、ごく簡単に触れたい。伝承間に連続性が無いため、深く追求するつもりは無い。



⑤ 宮下文書(wikiより)


みやしたもんじょとは、富士山の北麓、山梨県富士吉田市大明見(旧南都留郡明見村)の旧家、宮下家に伝来する古記録・古文書の総称。「富士古文書」「富士古文献」などとも称される。神武天皇が現れるはるか以前の超古代、富士山麓に勃興したとされる「富士高天原王朝」に関する伝承を含み、その中核部分は中国・秦から渡来した徐福が筆録したと伝えられている。だが、その信憑性については疑いがもたれており、いわゆる古史古伝の代表例に挙げられる。


文体は漢語万葉仮名を併用した記紀風のもので、筆者・成立事情は不明。助詞の用例や発音など言語的特徴から幕末期の成立であるとも考えられている。大正時代には宮下文書をもとに美輪義熈『神皇記』が成立した。



⑥ 漢文は秦の始皇帝が作った東アジアのエスペラント語であった