箸墓古墳の被葬者は矢張り卑弥呼、すなわち天照大神か! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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箸墓古墳は日輪弁財天を祀る天河大弁財天社の真北にあり、この古墳から神社方向を見れば南中の太陽を拝むことになり、被葬者を既に日巫女、すなわち卑弥呼の墓であると断定した(参考)。

天河大弁財天社の祭神の日輪弁財天は実は瀬織津姫の化身であり、天照大神荒御魂であった。すなわち箸墓古墳の被葬者の卑弥呼は天照大神荒御魂の化身とも考えられる。

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箸墓古墳を南に望む。山並みの向こうの真南に天河弁財天社がある。

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箸墓古墳(卑弥呼の墓)、東経135度50分30秒

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赤線の十字の交点が北緯34度14分、東経135度50分30秒

赤縦線の最上ピンク印が箸墓古墳、上から二番目が陰陽師安倍晴明の安倍文殊院となっている。

赤横線の交点の左のピンク印「奈良県五條市大塔町阪本214」に幕末、明治維新の志士、天誅組が立て籠もった(参考)

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天河大弁財天社

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天河大弁財天社、北緯34度14分、東経135度50分30秒

主祭神は市杵島姫命、元の祭神名は弁財天(サラスヴァティー)天河神社社家が代官所に1712年に出した「願書」に「生身天女の御鎮座天照姫とも奉崇して、今伊勢国五十鈴之川上に鎮り座す天照大神別体不二之御神と申し伝え」るとあることからも判明するように、創建に関わった天武天皇と役行は、伊勢神宮内宮に祀られる女神(荒祭宮祭神 瀬織津姫)天の安河の日輪弁財天として祀った(wikiより)。

北東方向の近くに南北朝時代の南朝の黒木御所の跡がある。


雑談1
同緯度の北緯34度14分の沖ノ島をお祀りする宗像大社の主祭神が宗像三女神で、また弁財天の総本宮であり、天河大弁財社と同一神を祀っていることになる(参考)。


雑談2
偽書とされるホツマツタエでは天照大神は男神の崇神天皇で瀬織津姫は彼の妻であるとされている。

天河大弁財天社がある北緯34度14分の星空の下で秦の始皇帝は天子になっているが、突飛な思いつきではあるが、高天原におられる天照大神とは秦の始皇帝を象徴しているのではあるまいか!?

秦の始皇帝の命令で渡来した徐福は、wikiによると、朝鮮半島で書かれた『海東諸国記』には孝霊天皇の時に不老不死の薬を求めて日本の紀州に来て、そして崇神天皇の時に死んで神となり、人々に祀られるとある。

また、京都の太秦の大酒神社の主祭神は秦の始皇帝であるとwikiに記されているが、ここに主祭神を天照大神とする説も併記されている。


雑談3
高天原から初めて筑紫の日向に降臨した瓊瓊杵尊が薨去され葬られた陵である筑紫の日向の可愛の山陵の場所は、世界遺産に認定された沖ノ島の一部の福津市津屋崎の勝浦古墳群の中の勝浦峯の畑古墳であろうと考えている(参考)。

すなわち、沖ノ島祭祀は日本列島に渡来した秦氏であり、その秦氏の祭祀者が瓊瓊杵尊と言うことであり、まさに秦の始皇帝が天照大神と言うことになる。


参考

秦の始皇帝は北緯34度14分の星空の下で天子になった