なぜアレクサンダー大王はガンダーラにやって来たのか! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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アレクサンダー大王はギリシャのマケドニア国から出発して、当時の世界の中のアジア地域を占めるペルシャ帝国を滅ぼして、帰還した。

ただし、よくよく遠征ルートを見ると、東の中国大陸方面に向かうルート(後のシルクロードの幹線)のサマルカンドあたりで攻略に二年を要するくらい苦戦して、インド大陸方面に転戦した。このインドでも入口のガンダーラあたりで苦戦を予測し、帰還の決定をした。

アレクサンダー大王は中国大陸以東への遠征の野望があったようだ。当時の中国大陸は春秋戦国時代の戦乱で荒廃しており、攻め落とすことは不可能では無い。

ある説によると、アレクサンダー大王には当時の世界を取り囲む大海(オーケアノス)を見たかった、とある。しかし、360度、どの方向に進もうと必ず大海に到達するのに、東以外には見向きもしなかった。帰還時、アラビア海からペルシャ湾を航海したが、オーケアノスを見たとして満足してはいなかった。

アレクサンダー大王はペルシャ帝国を攻め滅ぼす前にレバノンからエジプトに遠征しているが、ここで地中海世界の貿易に従事していたフェニキア人を征服した。地中海で広く活躍するフェニキア人は世界の知識と航海術を身につけており、ペルシャ帝国から更に東の世界の存在と、そこに行くための術(陸上の航海術)をアレクサンダー大王に教えたと考えられる。アレキサンダー大王の帝国が西洋占星術の基礎を作ったと言う史実がこれを証明している。だから、エジプト攻略後、直ぐにペルシャ帝国に向けて遠征を開始するがことが出来たのである。アレクサンダー大王はペルシャ帝国内の進軍は、留まったり後退することなく、ひたすら東に向いて、中国大陸の入口のサマルカンドに到達した。

サマルカンドから東への侵入を失敗すると、インド方面のガンダーラに到った段階で東進を諦め、帰還に転じた。このガンダーラが面白い位置にあった。北緯34度14分にあった。この位置はレバノンのカディーシャ渓谷と神の杉の森のと同じ北緯で、海洋を航海するのと同じやり方で、同じ星空を見るように東進すれば必ず世界の東端の日本列島に到達できるのである。

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ガンダーラ地方の星空(参考)

アレクサンダー大王は到達した最東端を確認して、不満足ながらも帰還に転じたのであった。そして、ここに多くの兵士のみならず、引き連れていた文化人や工人を残留させて、現地女性と結婚させたと思われる。この証明として、この地にヘレニズム文化が開花しただけでなく、中国大陸やインドからの人びとを受け入れて仏教研究の地となって大乗仏教が誕生し、さらに、これまで無かった仏像が生まれ、中国から日本に渡来した。

また、アレクサンダー大王の遠征の約100年後であるが、秦の始皇帝陵に伴う兵馬俑にギリシャ美術の影響があり、ギリシャ人の工人の存在をうかがわせる。

アレクサンダー大王の遠征の真の意味は、マケドニア国内に溢れた人口を新天地に分散させることであったと考えられるが、中国大陸から日本列島、さらに太平洋(オーケアノス)が豊かな資源に溢れた新天地に思えたのであろう。この情報は、当時の日本列島の海人族から航海術を教わったフェニキア人から聞いたのであろうか。

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ペルシャ帝国内のアレクサンダー大王の遠征、春秋戦国時代の中国大陸、インド(参考)、赤丸: ガンダーラ青丸: サマルカンド、黄色線は山岳地帯


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アレクサンダー大王の遠征ルート(参考)、赤丸: ガンダーラ青丸: サマルカンド

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シルクロード(コトバンクより)、赤丸: ガンダーラ青丸: サマルカンド、当時はまだ確立していないとしても地形的に行軍可能なルートを示唆する。

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緑線: 北緯34度14分、赤丸: ガンダーラ青丸: サマルカンド


参考

① アレクサンダー大王の夢は東方の最果ての海を見たかった(参考)

紀元前334年、ギリシャを統一したアレキサンダーは、父の遺志を継いでペルシアへの遠征を行う。当時のアケメネス朝ペルシア帝国は、現在のイランを中心に、西はトルコやエジプト、東はパキスタン周辺まで及ぶ最強国家であった。このペルシアを打ち破らなければ、世界を手中に収めることは出来ない。この時代の世界観で考えるとペルシャの先には「最果ての海」があると信じられていた。地中海を中心とした南ヨーロッパ、北アフリカ、中央アジアまでが世界のすべてだったのである。

マケドニア軍38,000は、ペルシア軍40,00とアナトリア地方のグラニコス川で対峙する。一際派手な鎧で人目を引くアレキサンダーは、自ら軍の先頭を駆って突進すると敵将を投げ槍で仕留めたという。あまりに鮮烈な勝利にマケドニア軍は士気を高め、ペルシア軍は恐怖を覚えた。その後もマケドニア軍は勝利を重ねながら東進を続けてゆく。この頃にはマケドニアの将兵もアレキサンダーのカリスマ性に魅了されていた。ペルシアを滅ぼしたアレキサンダーは、中央アジアに進出する。

彼は、我が身をもって行動を示す人物だったからだ。そして、その勢いのままイッソス(現在のトルコ領内)でペルシア国皇帝ダレイオス3世が率いる12万のペルシア軍と衝突する。マケドニア軍は4万足らずとも言われるが、その劣勢を覆してペルシア軍に5万の戦死者を出して勝利した。この戦いの後、アレキサンダーはペルシャ全軍を完全に制圧するまでの遠征に乗り出すことになる。

アレキサンダーは、反ペルシアの都市が比較的多かったシリアを経て、さらに南下するとエジプトを占領した。ペルシア領になってまだ日の浅いエジプト占領は容易であり、紀元前332年にはエジプトの王ファラオとして認められる。その後、ナイル川の河口西端に都市を建設したが、これが現在のアレクサンドリアである。

紀元前331年、再び東進したマケドニア軍47,000は、チグリス川上流にて20万とも30万ともいわれたダレイオス3世指揮下のペルシア軍を破った。勝利の鍵はアレキサンダーの天才的な指揮と、それを実現させたマケドニア軍の統制のとれた戦術だったといわれる。

ペルシア王朝の中枢であるイラン・イラク地域に進軍したアレキサンダーは、最初こそマケドニア軍に略奪などを許していたが、ペルシア文明の高さ、そしてそれを統治してきたダレイオス3世に尊敬の念を抱くようになる。その経験が後の大王としての政策に生きるのだが、ダレイオス3世は配下の裏切りにより暗殺されてしまった。これにより、ペルシア帝国はほぼ滅亡したといえる。

ペルシアを滅ぼしたアレキサンダーは、中央アジアに進出する。現地のソグト人による激しい抵抗は二年にも渡ったが、マケドニア軍は遊牧民の騎兵にも勝利を収めた。しかし、故郷を旅立ってから約7年もの遠征を続けた将兵の指揮はこのころから低下していく。

続いてインドへの遠征を開始したアレキサンダーだったが、初戦で両軍合わせて約2万もの戦死者を生む激しい戦いに勝利する。それでもインドへの侵攻を進めようとするアレキサンダーにある知らせがもたらされた。その先に待ち構えるのは20万を超える大軍と6千頭もの象を用意したインド軍であると。さすがのアレキサンダーも自軍の損耗や兵の士気を考えて引き返す決断をする。ここに彼の大遠征は幕を閉じることとなった。

大遠征の夢は消えたものの、ペルシア文明の高さとダレイオス3世の人間性に感銘を受けたアレキサンダーは、自国の政策を「支配から融和」へと進めるようになる。マケドニアへの帰還途中にはマケドニアの兵士とペルシア人女性との合同結婚式が行われた。バビロン(現在のイラク)においては帝国を文明ごとに大きく3地域に再編することなどを宣言、大帝国内では人と文化の移動が起こり、ギリシャ文化とオリエント文化が融合しヘレニズム文化として花開いたといわれる。

その後のアレキサンダーはアラビア遠征を計画していたが、突如倒れると10日間の高熱にうなされて死去する。マラリアだったという説が有力だが、これにより、34歳の若き大王はその生涯を終えた。紀元前323年6月10日のことである。
 
しかし、彼は最後まで見続けた夢があった。オーケアノス」である。

古代ギリシャの神話においてウラヌスとガイアの息子でティターン一族の長兄にあたるオーケアノスは「海」を意味していた。そのため、古代ギリシャの世界観では、世界は円盤状になっていて、エウローパ(ヨーロッパ)、アシアー(西アジア)、リュビアー(北アフリカ)の三大陸が中心に存在し、その果てにはオーケアノス(海)がぐるりと取り囲んでいたとされる。

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※古代の世界観

それ故にオーケアノスとは「地の果て」という意味も持っていたのである。英語で大洋を意味する「ocean (オーシャン)」の語源である。アレキサンダーはそのオーケアノス、「最果ての海」を見ることを夢に遠征を続けたともいわれている。


② フェニキア(コトバンクより)

フェニキアは、やがてアレクサンドロス3世 (大王) の東征とともにヘレニズム世界のなかに編入され、フェニキアはその固有の歴史を閉じた。

その文化はエジプト、エーゲ海地域、メソポタミア、シリアの要素の混合したものであるが,最大の遺産は 22文字から成るアルファベットの発明にある。


④ ソグド人(wikiより)

紀元前329年マケドニア王アレクサンドロス3世の軍隊が中央アジアに侵攻し、マラカンダ(サマルカンド)を攻め落とした時、抵抗したソグド人の死者は約3万人にのぼったと歴史書にある。

長期間のゲリラ戦に手を焼いたアレクサンドロスは、中心都市の占領のみで矛を収め将兵にソグド女性との婚姻を奨励するなど住民の鎮撫に努めた。アレクサンドロスの死後、マラカンダを中心とするソグディアナ一帯は周辺の諸民族の乱入による混乱が続くが、その間にソグド人はしだいに東西貿易に従事する商人として優れた才能を発揮するようになる。


⑤ アレクサンダー大王の東方遠征の地図(参考)

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⑥ 西洋占星術はアレキサンダー大王の帝国から始まった(参考)

紀元前4世紀にマケドニアのアレキサンダー大王はギリシャを統一し、メソポタミア、ペルシャ、エジプトなどを征服して大帝国を築きます。

それによって各地の文化が融合したヘレニズム文化が始まり、ヨーロッパ文化の源流となるわけですが、占星術もバビロニアやエジプトのものが融合し、天体の動きを読み取る天文学にギリシャの哲学や思想が加わっていくというかたちで、現代につながる西洋占星術の基礎ができたといわれています。

占星術に使われる天体の配置図「ホロスコープ」は、この頃に生まれたそうですから、西洋占星術はアレキサンダー大王の帝国から始まったといえます。

注: 占星術もバビロニアやエジプトのものが融合とあるが、さらにそのルーツはフェニキア人の航海術であろう。何故なら、天体の運行の研究には緯度・経度を変えて観測する必要があり、フェニキア人のような移動する海人族しか出来ない。