秦の始皇帝の宮殿の阿房宮の復元 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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秦の始皇帝の未完の巨大宮殿の阿房宮の跡は東西1200m×南北400m、高さ10mの版築の基壇が残っており、屋根瓦が出土している。この広大な敷地の中に最大東西800m×南北150mの宮殿があったとか!

中国では紫禁城の様な漢民族様式の巨大な建物としてテーマパーク阿房宮を作っている。しかしながら、秦は漢民族と異なる遊牧民族であり、北西の遊牧民族の地域である新疆ウイグル自治区にある弓月城の様な広大な敷地に巨大な一階建ての宮殿を想定すべきである。

秦は日本民族と同族で原日本語を喋っていたことをすでに指摘した(参考)が、そうすると日本の建物と敷地に阿房宮の復元の為のヒントがある可能性がある。ちなみに、現在の京都御苑と内側の御所の外周を比較して見ると、阿房宮の規模にほぼ同じサイズになっていた。

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京都御苑の外周は凡そ1200m×600m、御所を除いた敷地は幕末まで公家の屋敷があった。

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旧皇居の御所の外周は凡そ400m×200m

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御所の主屋である紫宸殿


参考

① 秦氏の王、弓月の君の出身地である弓月国の弓月城(参考)

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弓月城、1500m×500m

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② 君主の居宅は平家(ヤフー知恵袋より)

基本的に東洋では、君主の頭上に立つのは無礼な事ですから二階建てを作っても、君主を二階からみたり、君主が一階にいるのに、その上の階に上がったりしません。だからやたら巨大な建物を作ったとしても、基本的に二階はありません。簡単に言えば金閣寺のような階層建ての建物は特殊で普通は東大寺のような巨大な平屋を作ったんです。

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建物の中は一つの空間

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紫禁城の建物の中は一つの空間で玉座があるのみ


③ 阿房宮(あぼうきゅう、wikiより)

秦の始皇帝が建てた大宮殿である。咸陽とは渭水をはさんで隣に位置していた。遺跡は、陜西省西安市西方13kmの阿房村に残っている。始皇帝の死後も工事が続いたが、秦王朝の滅亡によって未完のままに終わった。名称がなかったのを、世人が地名にちなんで阿房宮と呼んだ。 始皇帝が即位すると、孝行が建てた咸陽の宮殿は狭小であるとして、渭水の南にあたる上林苑に新たな宮殿を建てる計画を立てた。阿房の地に前殿を造ろうとしたが、始皇帝の生前には完成しなかった。

『史記』によると、前殿建築物の規模は東西五百歩つまり3,000尺・南北五十丈つまり500尺という。なお、メートル法に換算すると、乗数に諸説があるため東西600-800m・南北113-150mなどの幅がある。その殿上には1万人が座ることができ、殿下には高さ5丈の旗を立てることができた。殿外には柵木を立て、廊下を作り、これを周馳せしめ、南山にいたることができ、複道を作って阿房から渭水を渡り咸陽の宮殿に連結した。これは、天極星中の閣道なる星が天漢、すなわち天の川を渡って、営室星にいたるのにかたどったものである。

その建築に任じた刑徒の数は70余万に昇った。なおも諸宮を造り、関中に300、関外に400余、咸陽付近100里内に建てた宮殿は270に達した。このために民家3万戸を驪邑に、5万戸を雲陽にそれぞれ移住せしめた。各6国の宮殿を摹造し、6国の妃嬪媵嬙を尽くこれに配し、秦の宮殿を造って秦の佳麗をこれに充てた。そこで、趙の肥、燕の痩、呉の姫、越の女などそれぞれ美を競って朝歌夜絃、「三十六宮渾べてこれ春」の光景をここに現出せしめた。唐代詩人の杜牧「阿房宮賦」(zh)に詠われたのは、必ずしも誇張ではない。

なお、前述の『史記』には「始皇帝の死後、阿房宮は楚の項羽の軍隊によって焼き払われ、三ヶ月間にわたって火が消えなかった」とする記述があり、この記述は20世紀まで史実であると認識されていた。

しかし、2003年に「項羽によって焼かれたのは咸陽宮であり、阿房宮は焼かれていない」とする新説が公表された。これが事実であれば、阿房宮は秦王朝の滅亡後も王朝によって使用されていた可能性が高いと言える。


④ 阿房宮遺跡(参考)

前殿は東西600―800m、南北113―150m。
版築工法で造られた基壇の規模は東西1270m、南北426m、高さ9~12m。

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基壇

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基壇

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基壇

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基壇

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基壇の上

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基壇の上


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阿房宮遺跡


⑤ 瓦屋根の神社

阿房宮の遺跡から瓦が出土したので、木造瓦葺きの建物、すなわち瓦屋根の神社が思い浮かぶ。

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瓦屋根の神社


⑥ テーマパークの阿房宮(参考)

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紫禁城の建物をさらに大きくしたイメージ


⑦ 咸陽宮の復元(参考)

秦の都、咸陽にあった壮大な宮殿で、戦国時代に孝公が造営し、始皇帝も居住したが、手狭になり、阿房宮を建設することになった。

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咸陽宮の復元見取り図(注、こんな漢民族様式の建物では無かったはず)

真ん中の溝を境に左が1号宮殿、右が2号宮殿である。1号宮殿(左半分)の土台のサイズは東西が60メートル、南北が45メートル、一層の土台の高さは6メートルだったという。土台の上に建つ宮殿の真ん中の最も高い部分の建物は、東西13.4メートル、南北12メートルというから意外に小さいものだ。いまの小学校の体育館は大体24メートルx34メートルが主流だから、その四分の一程度のサイズだったようだ。図の右下に縮尺があるので大体の見当がつくと思う。この見取り図から描いた想像図でもそれほどの大きさではない事がわかる。

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中央上: 咸陽宮遺跡   中央左: 阿房宮遺跡



⑧ 参考: 著名な神社とエルサレム神殿のサイズ

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出雲大社、参道が南に向かう、600m×200m

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春日大社、参道が西に向かう、1200m×400m

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宇佐神宮、参道が北に向かう、500m×500m

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鹿島神宮、1000m×500m

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エルサレム神殿、500m×300m


⑨-1 参考: 古代ユダヤ人が建てた古代ヘブライ神殿と日本の神社の構造は似ている(wikiより)

もともと、古代ヘブライ神殿は「幕屋」と呼ばれる移動式であったが、幕屋はその名の通り、周囲を幕や板で囲み、中で神に捧げる祭睚を行なった。全体ではないが、囲むという概念は日本の神社でも見られ、同様に祭睚は極秘である。幕屋の中の構造は基本的には聖所・至聖所・拝殿に分かれていて、祭壇には明かりをともす常夜灯があり、脇には手を洗う水盤があった。有名な古代ソロモン神殿(エルサレム神殿)の前には、お耄銭(賽銭)を入れる箱も置かれていた。


⑨-2 参考: 秦氏はユダヤ人(参考)