草津町・国立ハンセン病療養所「栗生楽泉園」 重監房 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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草津町と中之条町の間の日本ロマンチック街道沿いに、ハンセン氏病患者の為の国立ハンセン氏病療養所があった。

病人を罪人以上の酷い扱いにした独房みたいなものも、戦前あったとか!

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国立療養所栗生楽泉円と重監房

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草津町全域、草津温泉や別荘地と東の中之条町の間

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群馬県草津町


参考

① 【群馬】草津町・国立ハンセン病療養所「栗生楽泉園」 重監房の写真発見

東京新聞(2017.6.3、参考)

{E1DCC1BA-B372-4366-8FEB-8B69F407926C}発見された重監房の建物部分を拡大した写真(重監房資料館所蔵)

草津町の国立ハンセン病療養所「栗生(くりう)楽泉園」で、戦時中を中心に患者を監禁した懲罰施設「重監房」を昭和二十年代半ばごろに撮影したとみられる写真一枚を、園内の重監房資料館で主任学芸員を務める北原誠さん(62)が発見した。重監房の写真が見つかるのは初めて。写真は全体が写るために重監房の構造をより正確に解明する根本資料となり、研究の前進が期待される。 (菅原洋)

写真の発見について北原さんは、九~十日に熊本県の国立療養所「菊池恵楓(けいふう)園」で開催される「第90回日本ハンセン病学会総会・学術大会」で発表する。

重監房は一九三八(昭和十三)年に建てられ、終戦後までに逃走など理不尽な理由で患者延べ九十三人を収容。真冬は氷点下二〇度近くになる独房で粗末な食事しか与えられず、二十三人が死亡したとされる。五二(同二十七)~五三年に取り壊された。

発見した写真は五月三十日、北原さんが園内の入所者自治会で資料調査していたところ、職員が撮影したとみられる写真のアルバムの中にあった。

写真はモノクロで、縦七・五センチ、横十センチ。ネガフィルムはなかった。写真を重監房を知る入所者自治会の藤田三四郎会長(91)に見せたところ、「重監房に間違いない」と証言したという。写真の中には道や別の建物の一部なども写り、その位置関係や地形から総合的に重監房と判断した。

重監房の画像はこれまで、四七(同二十二)年に撮影された数分間のモノクロ映像しかなく、建物と独房内のそれぞれ一部のみが写っていた。このため、同資料館が独房を再現し、建物の模型を作る際、跡地に残る基礎や元患者らの伝聞情報なども参考にしていた。

今回の発見により、従来は目測で約四メートルとしていた建物の高さや、壁の厚さなどがほぼ正確に分かる可能性が高い。重監房による患者の隔離がいかに厳重だったかの解明につながる。

アルバムの裏表紙には、五一(同二十六)年三月三十一日、職員が園内で医者が駐在する「医局」へ渡したとみられる記載があった。その後、入所者自治会が患者史を編さんする際、園側が自治会へ提供したらしい。写真は発見後、自治会が同資料館へ寄贈した。

写真では、建物の西側半分程度が倒壊しているのが分かる。故人の元患者が著作に「昭和二十四年春には(重監房の)壁が大幅に崩れた」と記述したのと一致する。

北原さんは、写真には積雪がなく、アルバムの寄贈時期は同二十六年のため、撮影時期は同二十四~二十五年とみている。

発見した写真は今後、建築学や写真技術などの観点から分析し、来年度以降に解説を付けてパネル展示する見通し。

北原さんは「探し求めてきた写真がついに見つかった。分析により、展示の見直しにつながるかもしれない」と感慨を深めている。


② 国立ハンセン氏病療養所(wikiより)


(参照)日本国内の私立のハンセン病療養所:
・「神山復生病院」:現存する日本最古のハンセン病療養所(静岡県御殿場市


③ 国立療養所多摩全生園

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東京都東村山市青葉町4丁目1−1