足利尊氏は東国武士の棟梁の源氏の嫡孫であった。そして、足利尊氏は京都の室町に幕府を開いた。すなわち、新羅人の末裔の足利尊氏(参考)が百済人の末裔がほとんどの京都(参考)で、北朝の天皇を擁立して全国支配したことになる。
これに対し、南朝となる後醍醐天皇は百済人の末裔のいない吉野(紀伊半島の中の東京式アクセントの地域)を司令部にして全国ネットワークを作った。ちなみに当時、公家の藤原氏(百済系か!?)は主流の北家が北朝に、傍流の式家が南朝について、結果的に生き残った。
すなわち、室町時代初期の南北朝時代とは新羅(主)・百済(従)の末裔連合とその他の連合が覇を競い、ついに前者連合が勝利したことになる。
そもそも南北朝並立という前代未聞の異常事態が始まったのは、尊氏の謀略からである。
(九州に落ち延びて、九州勢を味方にして)九州から押し寄せた足利軍に対して、延元元(1336)年5月25日、湊川(現・兵庫県)の戦いに敗れた後、楠木正成・正季兄弟は「七生報国(七たび人間に生まれ変わって国に報いる)」を誓って差し違えた。
5月27日、後醍醐天皇は叡山に逃れたが、8月15日、京都に入った足利尊氏は持明院統の光厳(こうごん)上皇の弟宮を立てて光明天皇とした。後醍醐天皇が在位されているのに、別の天皇を立てたのが二朝並立の始まりである。
しかし、三種の神器は後醍醐天皇の許にあり、神器なくして擁立された光明天皇には正統性はない。そこで尊氏はなんとか神器を得ようと、一計を図って後醍醐天皇に京都へのお帰りを請うた。そして京都に戻られた後醍醐天皇を幽閉して、神器を光明天皇に渡すように強要した。
後醍醐天皇は、こうした事態も予期されていた様子で、偽物と言われる神器を渡された上で、秘かに12月21日夜、吉野(現・奈良県南部)に逃れ出た。こうして南朝が始まったのである。
後醍醐天皇在位のまま神器もなしの北朝擁立といい、神器を得るための策略といい、私欲のためには手段を選ばない尊氏の人となりが見てとれる。
南朝の全国ネットワーク
南朝と言うと、いかにも吉野の山奥に潜んで、ゲリラ的抵抗を続けていたかのように思えるが、実際にはそうではなかった。そもそも吉野は修験道の本拠地として、多くの寺社を擁し、それぞれが数百、数千の衆徒を抱える富強の地であった。
東は伊勢の地で勤王の志厚く、さらに海路で陸奥につながる。そこには北畠親房(ちかふさ)・顯家(あきいえ)親子が後醍醐天皇の第七皇子・義良(のりが)親王(次代・後村上天皇)を奉じて関東を窺っていた。
西の河内は楠木一族の本拠地であり、そこから南朝方の熊野や伊予の水軍が支配する瀬戸内海を経て、九州の菊池・阿蘇ら勤王軍につながる。後醍醐天皇は懐良(かねよし)親王を征西将軍宮として派遣され、この親王のもとで九州では南朝方が優勢だった。
さらに北陸には新田義貞の一族が、京都を睨んでいた。このように南朝は吉野を中心に、全国的なネットワークを構築して、北朝と対峙していたのである。