世界初の大航海者の鄭和は第二の徐福か! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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世界初の大航海を成し遂げた中国の明の宦官、鄭和は漢民族とは異なる少数民族出身の陰部を除去された奴隷であったのはよく知られている。彼の親たちはモンゴル民族支配の元で活躍し、その結果、漢民族支配の明に討伐されて、宦官にされた。

彼の出自を調べると、日本民族と同族のチャン族(Y-DNA D)の祖先の羌族の末裔のイ族であった。羌族は秦と同族で広大な東アジアを駆け巡っていた。

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(コトバンクより)

鄭和の大航海の理由はいくつか説明があるが、どれも十分に納得出来ない!明への朝貢が増えても明の皇帝の支出の方が多かったとか!軍事遠征としても範囲が広すぎる。なんか、秦の皇帝の資金を使って日本列島に渡った徐福のように、うまく皇帝を騙して、第二の日本列島を探したとは考えられないか!?当時、1500年前の徐福の伝説は当然、知れ渡っていたはずである!

鄭和の大航海のルート上にアンダマン諸島があり、ここを日本列島に見立てて一族を送り込んだとも考えられる。ここの住民に日本民族やチャン族と同じY-DNA Dが見出せる(参考)。

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Y-DNA Dのグレートジャーニー: アフリカでDとEに別れた後、Dは東に進み、東アジアから日本列島に広がった。漢民族に圧迫されて、さらに日本列島に渡来した者と、雲南省あたりから海路、アンダマン諸島に渡った者がいたことになる。

さらに、アフリカのケニア沖の島に船員の子孫が住んでいたと言う話がある。島なら外敵や伝染病への心配が無い!


雑談1

アフリカの最南端の希望峰から大西洋に出たと言うトンデモ説的な伝説があり、この話を聞いたバスコダガマがアフリカ南端経由のインド航路を開拓したとの話もある。もし、これが正しいなら鄭和は明の皇帝の意向を無視して、新天地を探していたことになる。

インドネシアからさらに東に行ってオーストラリアを発見していたら鄭和は新大陸の皇帝になれたはずだが、明に朝貢出来るような国は無く、さすがに見え透いて出資者の明の皇帝に言い訳が出来なかったのであろう。


雑談2

国境のない東シナ海の海人族と言えば日本の古代史に出てくる海人族安曇氏(現在の漁師さん達、Y-DNA C1)は東南アジアのスンダランドあたりがルーツと考えられている。鄭和の大航海の船員達は中国大陸沿岸の漁師、すなわち海人族安曇氏の同族では無かろうか!?すなわち、鄭和の大航海とは日本民族の同族の一団の大冒険であったことになる!

この遺伝子の組み合わせが日本帝国海軍につながっていると想像すると面白い!日清戦争時の清国海軍につながっているとは考えにくい!


参考

① 鄭和(wikiより)

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マラッカにある鄭和像(眉間あたりが現代漢民族の容貌とは異なっている!?強いて言えば秦の始皇帝の兵馬俑の兵士達に似ていなくもない、、著者の感想)

鄭和(てい わ、拼音Zhèng Hé, 1371年 - 1434年)は、中国の明代の武将。12歳の時に永楽帝に宦官として仕えるも軍功をあげて重用され、南海への7度の大航海の指揮を委ねられた。鄭和の船団は東南アジア、インドからアラビア半島、アフリカにまで航海し、最も遠い地点ではアフリカ東海岸のマリンディ(現ケニアのマリンディ)まで到達した。本姓は、初名は三保で、宦官の最高位である太監だったことから、中国では三保太監あるいは三宝太監の通称で知られる。

馬三保、すなわち後の鄭和は、馬哈只の子として雲南省(昆陽鎮)でムスリム(イスラム教徒)として生まれた(ただし、根拠はない)。朱元璋が明を建てると、元の影響下にあったこの地は討伐を受け、まだ少年だった鄭和は捕らえられて去勢され、宦官として当時燕王だった朱棣(のちの永楽帝)に献上された。

朱元璋の死後、永楽帝が帝位を奪取する靖難の変において馬三保は功績を挙げ、永楽帝より鄭の姓を下賜され、宦官の最高職である太監に任じられた。


② 鄭和は雲南の晋寧の人(参考)

雲南の歴史的な偉人には明時代の航海家である鄭和(昆陽が今日の晋寧人)がいる。


③ 晋寧区(しんねい-く、wikiより)

中華人民共和国雲南省昆明市に位置する市割区。

晋寧は戦国時代に将荘跃が雲南地方を開発し滇国を建国するとこの地を中心とした。前109年(元封2年)、漢武帝は常羌を滇王に封じ、益州郡を設置した。

民族郷:双河イ族郷、夕陽イ族郷

著者注: 春秋戦国時代のは秦や羌族と共に漢民族のルーツの国の周と敵対していた。


④ イ族(wikiより)

イ族は中国西部の古羌の子孫である。古羌は、チベット族納西族羌族の先祖でもあるといわれる。イ族は南東チベットから四川を通り雲南省に移住してきており、現在では雲南に最も多く居住している。南詔王国を建国した烏蛮族が先祖だと言われている。

精霊信仰を行い、ビモという司祭が先導する。道教や仏教の影響も多く受けている。雲南省にはイスラム教を信仰するイ族の集団もある。ただしそれらは、イスラム教を信仰するイ族なのか、イ語を話しイ族の文化に属する回族なのかは、明確には分別できない。


⑤ 鄭和の大航海(参考)

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⑥ 第一次航海(wikiより)

1405年7月11日、鄭和34歳。永楽帝の命により第1次航海へと出る。『明史』によればその航海は下西洋西洋下り)と呼ばれる。船団は、全長42丈余の大船62隻、乗組員総数2万7800名余りからなる大艦隊だった。


⑦ 大航海の理由の諸説(wikiより)

なぜ永楽帝がこの大航海を企図したかには様々な説がある。その代表的なものは以下の通りである。

1. 靖難の変の際に軟禁から脱出した建文帝が南海に逃げたかも知れないので、それを捜索するためとする説。
2. 西のティムール朝の伸長を恐れた永楽帝が、ティムールの後ろの勢力と結んで挟撃するためという説。
3. 朱元璋が明建設の際に滅ぼした陳友諒の配下だった水軍勢力が反抗することを恐れて、これをまとめて南海に派遣したという説。

1の説はあり得ない話ではないが、主目的だったかには疑問がある。2の説についても、ティムールは第1次航海の年に死んでおり、ティムール個人の権威に基づいたティムール王朝は彼の没後、急速な分裂に向かったが、ティムールが派遣したスーフィーマウラナ・マリク・イブラヒームチャンパ王国に進出し、明胡戦争(明・大虞戦争、1406年 - 1407年)に影響を与えたほか、後にその弟子の集団ワリ・サンガドゥマク王国マジャパヒト王国に大きな影響を与えたため、何度も航海を実施した理由と考えられる。3の説は朱元璋が陳友諒を破ってから長い時が流れすぎており、これも考えにくい。

他に考えられる理由としては、簒奪という手段で帝位についた永楽帝は国内の白眼を払拭するために、他国の朝貢を多く受け入れる儒教的な聖王を演出することによって自らの継承を正当化しようとしたという説もある。

政治的な理由よりも、中国艦隊が南シナ海インド洋における海上覇権を樹立することによって諸国の朝貢を促すことが主目的だったとする説もある。費信などの記録も見ても、諸国の物産や通商事情に関心が寄せられているのは経済的な動機を立証するものとする。

しかし、明は海禁政策を採っており、貿易は朝貢貿易に限っていた。朝貢貿易においては中華帝国側は入貢してきた国に対して、貢物の数倍から数十倍にあたる下賜物を与えねばならず、朝貢を促すことが経済的な利益につながるわけではない。このため、単に経済の面だけ見た場合、朝貢という貿易形態である以上は、明にとってはむしろ不利益となる。

なお、上記の説とは別に、永楽帝期の明は積極的な拡張政策を取っていた。永楽帝本人によるモンゴル高原への親征をはじめ、ベトナムを支配していた陳朝を1400年胡季犛が簒奪して成立した胡朝の成立を認めず、1407年に軍事侵攻を行って胡朝を滅ぼしベトナムを支配下に置いたのはその例である。また、こうした直接の軍事侵攻だけでなく、宦官を周辺諸国に派遣して朝貢を促すことも積極的に行われていた。チベット、ネパール、ベンガルといった西南部諸国には侯顕が繰り返し派遣され、とくにベンガルへの派遣においては海路が取られている。李達は東チャガタイ・ハン国やトルキスタンに4回派遣され、西域諸国との折衝にあたっていた。李興はシャムへと派遣され、女真人の亦失哈(イシハ)は軍とともにアムール川地方へと派遣されてこの広大な地方を明の支配下に組み込んだ。鄭和の南海遠征も、この動きの一環としてとらえることができる。

こうした周辺諸国への朝貢要請に、軍事遠征の要素もある亦失哈や鄭和も含めてすべて宦官が用いられたことは、永楽帝政権の宦官重用を示す好例ともなっている。


⑧ 「鄭和船団「子孫」ケニアから招く」という記事(朝日新聞2005年8月23日付、参考)

15世紀、明の時代に大航海を行った鄭和(1371-1434?)の船団は、遠くアフリカ東海岸まで達しています。現在のケニア沿岸部の小さな島に住む住民は、昔から鄭和船団に参加した船員の子孫だと語り継がれてきたそうなのです。島に残る石積みの古い墓は中国人船員たちの墓で、中国製の陶器がはめこまれているとかで、新聞は、「遺跡も裏付け」と報じています。

「鄭和の子孫」の記事では、中国政府によって「ケニアから招」かれるのは、その島に住む子孫一家の19歳の娘で、南京大学に進学して医師を目指すのだそうです。