藤田美術館と藤田伝三郎 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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大阪城の北側にある広大な敷地の中に国宝や重要文化財をたくさん展示した藤田美術館がある。特に曜変天目茶碗は有名である。この美術館は、明治時代の関西財界の重鎮で、藤田財閥の創立者である藤田伝三郎の収集した美術品を展示している。

藤田伝三郎は建設・土木、鉱山、電鉄、電力開発、金融、紡績、新聞、などの経営を手がけ、今日の多くの名門企業の前身を築き、大企業としてはDOWAホールディングスがある。彼の名前が付いた有名企業は藤田観光であり、太閤園、椿山荘、小涌園の名前を聞けば、すぐ分かる。

彼の甥の田村市郎は日本水産(ニッスイ)の創業者、久原房之助はジャパンエナージのルーツの日立鉱山や日立製作所の創業者である。また日産自動車のルーツの日本産業の創業者の鮎原義介は井上馨の甥であるが、久原房之助の義兄の関係でもある。

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藤田美術館正門、藤田邸の中央部は昭和29年(1954年)に鉄筋コンクリート造りの蔵を本館とし、多宝塔を擁する藤田美術館として開館した。

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多宝塔


参考

① 藤田観光(wikiより)

藤田観光が経営する施設には、藤田組創始者である男爵・藤田伝三郎の本宅であった太閤園をはじめ、ワシントンホテルホテル椿山荘東京、椿山荘、小涌園 、箱根小涌園、箱根小涌園ユネッサンなどがある。


② 太閤園(wikiより)

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大阪府大阪市都島区網島町9−10

藤田財閥の総帥である藤田伝三郎が建てた「網島御殿」、「あかがね御殿」などと称された広大な藤田邸がもととなっている。藤田邸の敷地は伝三郎の死後子息達にそれぞれ相続されたが、次男の徳次郎が受け継いだ東邸を中心とする東部が太閤園の直接の母体となった。

昭和20年(1945年)6月7日の第3回大阪大空襲により藤田邸は東邸・鉄筋コンクリート造りの蔵・多宝塔を残して大半が焼失、戦後、その敷地は分割される事となった。

藤田邸の中央部は昭和29年(1954年)に鉄筋コンクリート造りの蔵を本館とし、多宝塔を擁する藤田美術館として開館した。そして、東邸を中心とする東部は藤田観光が昭和34年(1959年)に、東邸を「淀川邸」と名称を改めて新たに多数の建物をも建築してオープンした。現在では日本庭園や淀川邸を始めとした12の宴会場の他、多数の結婚式場やレストランを備えている。

戦後、藤田邸の中央部が藤田美術館、東部が太閤園、南部が大阪市公館(現ザ・ガーデンオリエンタル大阪)に分割され、北西部は藤田邸跡公園になっている。


③ 椿山荘(wikiより)

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東京都文京区関口2丁目2−10−8

武蔵野台地の東縁部にあたる関口台地に位置し神田川に面したこの地は、南北朝時代から椿が自生する景勝地だったため「つばきやま」と呼ばれていた。江戸時代は久留里藩黒田氏の下屋敷だった。

明治の元勲である山縣有朋西南戦争の功により年金740円を与えられ、1878年(明治11年)に購入、自分の屋敷として「椿山荘」と命名した。山縣は椿山荘において趣味である作庭を行っている。

1918年(大正7年)には大阪を本拠とする藤田財閥の二代目当主藤田平太郎男爵がこれを譲り受け、東京での別邸とした。戦災で一部が焼失したが、1948年(昭和23年)に藤田興業の所有地となり、その後1万余の樹木が移植され、1952年(昭和27年)より結婚式場として営業を開始した。


④ 箱根小涌園(wikiより)

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神奈川県足柄下郡箱根町二ノ平1297

「箱根ホテル小涌園」を筆頭とする宿泊施設3軒と、日帰り入浴/温泉レジャー施設の「ユネッサン」からなり、県道734号線の終点が国道1号に合流(分岐)するY字型交差点の周辺に所在する。交差点付近の標高は約620Mで、小涌谷駅から国道1号で直線距離500m、実際の道路延長では1100mほど離れている。

このほか厳密には小涌園に含まれないが、周辺に藤田観光およびグループ会社が分譲したリゾートマンションの「箱根リゾートマンション」と「ヴェルデの森箱根ヴィラマンション」、リゾート会員向け宿泊施設の「ウィスタリアンライフクラブヴェルデの森」、別荘用分譲地など一帯の敷地面積は20万坪に及び、箱根におけるリゾート開発地としては有数の業容を誇る。


⑤ 箱根ホテル小涌園が来年1月で営業終了 60年の歴史に幕

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藤田観光は15日、箱根温泉を代表する宿泊施設「箱根ホテル小涌園」の営業を2018年1月10日で終了すると発表した。

「箱根ホテル小涌園」は1959年に開業。箱根小涌谷地区における同社リゾート事業の旗艦施設として、「箱根小涌園ユネッサン」とともに団体客やファミリー層を中心に利用されている。しかし、建物の老朽化が進んでいること、昨年取得した「蓬莱園」に高級宿泊施設を開発することを踏まえ、営業終了を決めた。

藤田観光は、2015年から箱根地区の再開発を進めており、2016年3月に宿泊特化型旅館「美山楓林」を開業。また、国の登録有形文化財建築物にも指定されている「貴賓館」と「迎賓館」をレストランとしてオープン。2017年4月には、全室温泉露天風呂付旅館「箱根小涌園 天悠」の開業を予定している。


⑥ 藤田美術館(wikiより)

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国宝の曜変天目茶碗

藤田伝三郎は、骨董収集の面でも関西第一と言われ、その豪快な買いっぷりは伝説化している。 伝三郎の没後、昭和初期に藤田家蔵品の売り立てが3回行われ、この時売却された蔵品には、現在各地の美術館に納まっている名品が目白押しであった。それでもなお、現在の藤田美術館には国宝9件、国の重要文化財52件を含む名品が数千点所蔵されており、藤田家コレクション全体の規模の大きさが想像される。

藤田美術館の所在地は、多くの蔵が並んでいた藤田家本邸の跡地である。大工棟梁・今井平七の指揮のもと建てられた藤田邸は明治末期の建設時、関西で最大級の和風邸宅であった。邸宅内には30を越す茶室があった。

敷地内には、本邸、西邸、東邸とあったが、東邸(現在の太閤園・淀川邸(と本邸の表門(現、藤田邸跡公園南出入口の門)と多数の蔵、そして和歌山県高野山光台院から移築して銅板葺にした多宝塔を除き、第二次世界大戦の空襲で焼失。現在は、京都大学の日比忠彦設計の日本最初期の鉄筋コンクリート蔵(主に皿などを収蔵していた)を改装した建物が展示館として使用されている。現館長の藤田清は、伝三郎から数えて5代目の子孫。


⑦ 藤田伝三郎(wikiより)

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藤田傳三郎(ふじた でんざぶろう、1841年7月3日(天保12年5月15日)  - 1921年3月30日)は、明治時代の関西財界の重鎮で、藤田財閥の創立者である。建設・土木、鉱山、電鉄、電力開発、金融、紡績、新聞、などの経営を手がけ、今日の多くの名門企業の前身を築いた。

また有能な経営者を多数育て、美術品の収集家、慈善事業家、数寄者としても名高い。号を香雪と称す。藤田組の創始者。男爵と(民間人で初めての男爵)。現在の山口県萩市出身。元奇兵隊士

長男は平太郎、次男は徳次郎、3男は彦三郎。甥に田村市郎久原房之助


⑧ DOWAホールディングス株式会社(wikiより)

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資本金: 364億37百万円

非鉄金属の精錬、加工、環境・リサイクルを主たる業務とするDOWAグループの持株会社。旧社名同和鉱業。かつては「藤田組(ふじたぐみ)」と呼ばれて藤田財閥の中核企業であった。